尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[29]


〜第29回〜
「中国服を着た子供の幽霊?すると、その子供の幽霊は中国人か?」
「うん、かもしれん。しかし、この幽霊、ぞつとする感じではなく、子供らしい無垢であどけない顔をしておるといふ。公園で遊んでおる子供たちやデートを楽しんでおるカツプルの目の前に突然現れてはその人懐つこい顔でケタケタ笑ふさうな。そして、短いながらちやんと足も附いておつて、びつくりしておる人間の頭や肩の上にその足でピヨンと跳び乗つたかと思ふと、そこで体操選手よろしく逆立ちしたり、宙返りを繰り返したりと、何やら曲芸まがひのことをして人間をからかふといふことだ。それだけではない、グループで現れてストリートダンスのやうなものを繰り広げることもあるといふ。太鼓や笛をそれぞれ手に持つた幽霊が現れて何やら祭り囃子のやうな曲を奏し始めると、次から次へとほかの幽霊が現れて、飛んだり跳ねたり、腰をくねくね揺らしたりして、いかにも楽しさうに踊り狂ふといふから、いやはや何とも奇想天外といふか前代未聞といふか、全く面白い幽霊ではないかい。今のところ、これといつて人間に危害を加へるやうなことはしないといふから、憎めない、どちらかと言へば愛嬌のある幽霊なのだが、人間は皆薄氣味悪がつてな、戸山公園や戸山ケ原には今は誰も寄り附かないといふ話だ」
「中国服を着た子供の幽霊がケタケタ笑つて曲芸をしたり踊つたりだと?うーむ、ひよつとして、その幽霊たち、唐服を着て唐子髷などしてないか?」
「豆腐に空揚げ?」
「違ふ、唐服に唐子髷だわ。しかし、それが唐子だとすると、うーん、一体全体何故そんなところに?・・・」

小僧は煙突童子の話を聞くと、尾張で見た山車祭りにおけるからくり人形の唐子のいくつかを思ひ出さないではゐられなかつた。
「ひよつとすると、それは・・・ワンワン」
突然、小僧たちの背後で声がした。振り向くと、そこにはまたしても狛犬の村上庄左衛門。
「それは、キヨンシー※1かもしれん」
「キヨンシー?」と小僧と煙突童子の声は重なつた。
「さうぢや。中国には、この世に恨みや怨念を残して死んだり、中国古來の道教の作法とは異なつた方法で埋葬されたりした人間が、成仏できずにこの世に甦つた、いはゆるゾンビのやうなものが存在する。それをな、キヨンシーと呼ぶさうな。その子供の幽霊はただの幽霊ではない、キヨンシーかもしれんぢや」
「しかし、ここは日本じやないか、村上さんよ」と怪訝な顔の小僧。
「さうぢや。が、あの辺り、戸山公園や戸山ケ原一帯の地中には、驚くなよ、ワンワ
ン、先の戦争中に×××部隊を介して××から××××きた×××××××の遺骸が
埋められておる可能性があるんぢや」
「なんだ、××が多すぎてよく分からんが、とにかく、それは本当か?」
「うむ。あの辺りは江戸時代、尾州家下屋敷、世に言ふ戸山荘があつた旧跡であることは以前話したが、明治になつてから戸山荘は新政府の所有するところとなり、陸軍の戸山学校、陸軍病院、錬兵場などがそこに置かれるやうになつた。当然ながら、広大な庭園は開墾整地され、すつかり改変されてしまつた。その後も開発は続き、将軍家斉※2によつて『すべての天下の園地はまさにこの荘を以て第一とすべし』と折り紙を附けられたこともあつた戸山荘、あの風流と贅を尽くした、桃源郷ともいふべき庭園も世の中の流れには逆らへず、哀しいかな、思ふ存分踏み荒らされて、今ではただの雑木林や雑草地ぢや。ふむ、ま、それはよいが、明治から少し時は経つて1930年代、満州事変が勃発した後、細菌学が専門のある軍医※3の提唱によつて陸軍軍医学校防疫研究室といふのが設立された。そして、その研究室の施設があの戸山の敷地に建てられたのぢや。ぢやが、その研究室、実態はな、×××××・・・」
「また××か、ちやんと話さんか」
「勘弁してくれ、作者もその辺のことはあまり書きたくないらしい。ぢやが、たいていのことは言はんでも分かるぢやろ。うんうん、察しがつくか。さうぢやろ。そんな訳で、その研究室の跡地近辺には、ワンワン、かなりの人体標本※4が埋まつておる、とワシは睨んでおる」

小僧注
※1 その存在が日本人に広く知られるやうになつたのは1980年代になつて香港映画『霊幻道士』シリーズがヒツトしてからである
※2 第十一代将軍(1787−1837)。戸山荘をしばしば訪れた
※3 石井四郎(1892−1959)

第30回へ
Copyright(c) 1998-2003 nova OwarinoDashimatsuri All right reserved
尾張の山車まつりへ 先ほどのページに戻ります [横須賀まつり訪問記][29]