尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[23]


〜第23回〜
その大原融通念仏流天狗学院妖怪大学が東京に分校を出すことになつた。
何処に学校を創るかといふことになつたが、
「新宿にある放生寺を借りることにしようと思ふてまんねん。隣には広い穴八幡神社の境内もあるしな、おんなじ『融通』つながりといふことで、どやろ?」と学長の赤鼻天狗。
「あそこは真言宗で、融通は融通でも、『金銀融通』のご利益のあるところではおまへんのか?」と東京に住んだことのある理事のミドリノタヌキ。

東京都新宿区 三朝庵
「細かいことは言はんとき。融通が利くところはおんなじぢや。それに、あそこの近くには江戸時代から営業してゐる有名な蕎麦屋の三朝庵※1がある。ここの名物の『融通蕎麦』、これが実に旨いんぢや」
といふことで、蕎麦好きの学長の一声で、といふより、これには他にちよつとした訳があつたのだが、それはともかく、新宿は高田馬場にある放生寺に分校が出來た。

小僧も、一度は受験に失敗して大学を諦めかけてゐたが、東京には興味があつたうへ、勉強する合間に関東の祭りが見物出來るとあつて、意気揚揚とその分校目指して上京した。1968年の春のことだつた。
小僧は上京すると、ちやうどその頃都合のよいことに、昔一緒に遊んだことのある豆腐小僧が放生寺の近くにある学生相手の安下宿をねぐらにぶらぶらしてゐたので、これ幸ひとばかりにそこに転がり込んだ。
目指す音楽部の入学試験にも幸ひ合格して、小僧はまだ見ぬ関東の祭りに思ひを馳せつつ、ウキウキとした氣分で大学に通ひながら、妖怪としての一般教養を学んだり、笛や太鼓の練習に励んだりしてゐた。  
豆腐小僧はといふと、こいつは勉強なんて大嫌いといふなまくら者で、寅三郎とかいふ香具師の親分に取り入り、あちこち祭りに出かけては、豆腐の味噌田楽を見物人に売ることに精を出してゐた。
そこで、小僧も暇があれば豆腐小僧にくつついて行き、関東の祭りを思ふ存分楽しんだ。

東京の祭りは浅草の三社祭に代表されるやうに御輿が主役であるが、その周辺の地域には山車祭りも数多く残されてゐる。青梅、川越、飯能、佐原と言つた所が有名であり、少し離れた所では、秩父、熊谷、栃木、桐生などが挙げられる。
しかし、これらの町の曳山は、その殆どが山車ではなく屋台と呼ばれてゐる。従つて、山車祭りと呼ぶのは正確ではないのかもしれない。
それらの曳山は、笠鉾型や万燈型の山車から、飾り屋台、踊り屋台、底抜け屋台と、その形は変化に富んでゐる。
中には東京から地方に流れた旧江戸型曳山もあるが、大幅に改修された結果、その江戸時代の原型を留めてゐるものが殆ど無いのは残念である。
関東の数ある曳山の中でも、秩父の屋台はやはり別格である。『動く陽明門』と形容される笠鉾は特に豪華で、その極彩色の精緻な彫刻には目を見張らせるものがある。
しかし、この秩父の祭りの主役は、屋台や笠鉾よりもどちらかと言へば若者たち、それも若い女性たちである。しかし、それについてはまたの機会に述べたい。

関東の曳山や祭りについて話し出したらキリが無いので、この辺でやめておこうと思ふ。
いづれにしても、尾張の山車祭りと大きく違ふのは、それらの曳山にからくり人形が無いことである。
旧江戸型系曳山の上には大きな人形が飾られてゐる場合が多いが、それらがいくら立派に作られてあつても、からくり操作で動かないとあつては、何か物足りないと感じないではゐられない小僧だつた・・・

novaの独り言
※1 天保元年の創業というから本町組の山車より古い歴史があるのだ.
また、今回使用した画像は全て神楽小僧氏撮影です.

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