尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[22]


〜第22回〜
ようかいのなかには、てんぐもたくさんおってな、ふだんはわるさばかりしておったが、その『しょうみょう』をきくようになってからは、なぜかおとなしくなった。
『しょうみょう』をきいたひとたちはみなくちぐちに、「こころがあらわれるようだ」といっておったから、てんぐたちもなにかかんじるところがあったんじゃろ。

そのてんぐのおやだまというのが、そのむかしはなまえを『あしやどうまん』といってな、ゆうめいな『おんみょうじ』じゃった。
『おんみょうじ』というのは、うらないやきとうをしょうばいにしておるひとたちのことじゃ。てんぐというようかいはな、うらみをいだいてしんだものや、みずからのちからをじまんしながらも、ふまんをいだいてしんだものがじごくからはいあがってきたものでな、その『どうまん』も、おなじ『おんみょうじ』の『あべのせいめい』とのちからくらべにやぶれたのをねにもって、しんでからもじょうぶつできないで、てんぐになってこのよにあらわれておったというわけじゃ。

そして、よのなかにわざわいをひきおこしてやろうとたくらんでおった。が、『りょうにんしょうにん』のさっきょくされた『しょうみょう』や、でしたちにといてはなされる、そのとうといおしえをぬすみきくうちに、じぶんのしようとしていたことがまちがっていたことにきづいたのじゃ。

『しょうにん』の『ゆうづうねんぶつ』のおしえにこころをうたれた『どうまんてんぐ』は、てんぐをはじめ、ほかのようかいたちをただしいみちにみちびかねばならないとおもうようになった。
そこで、ようかいのための『がっこう』をつくることをかんがえたのじゃ。できあがった『がっこう』には、『しょうにん』のえいきょうから『おんがくぶ』もつくられて、ようかいたちは、うたやおどりに、ふえやたいこのえんそうに、それはもう、たのしそうにはげんだということじゃ。
『かんぐらこぞう』のそせんもそこでまなんだのはいうまでもない。

ながいねんげつをへたいまでも、そのがっこうはありつづけておる。そう、いまでもじゃ。
ひまがあったら『おおはら』にいってみなされ、やまぶしすがたでしゅぎょうをしているてんぐにであうこともあるじゃろ。『がっこう』のなまえか? 『おおはらゆうづうねんぶつりゅうてんぐがくいんようかいだいがく』という、ちとながいなまえじゃが・・・

妖怪の中には、天狗も沢山おつてな、普段は悪さばかりしておつたが、その声明を聴くやうになつてからは、何故かおとなしくなつた。
声明を聴いた人たちは皆口々に、「心が洗はれるやうだ」と言つておつたから、天狗たちも何か感じるところがあつたのぢやろ。

nova注:この天狗は文中の天狗とは関係ない.
公通組八公車の「烏天狗」である.

その天狗の親玉といふのが、その昔は名前を葦屋道満と言つてな、有名な陰陽師ぢやつた。陰陽師といふのは、占いや祈祷を商売にしておる人たちのことぢや。
天狗といふ妖怪はな、恨みを抱いて死んだ者や、自らの力を自慢しながらも、不満を抱いて死んだ者が地獄から這い上がつて來たものでな、その道満も、同じ陰陽師の安倍晴明との力比べに敗れたのを根に持つて、死んでからも成仏出來ないで、天狗になつてこの世に現れておつたといふわけぢや。

そして、世の中に災いを引き起こしてやらうと企んでおつた。が、良忍上人の作曲された声明や、弟子たちに説いて話される、その貴い教へを盗み聞くうちに、自分のしようとしてゐたことが間違つてゐたことに氣附いたのぢや。

上人の『融通念仏』の教へに心を打たれた道満天狗は、天狗を始め、他の妖怪たちを正しい道に導かねばならないと思ふやうになつた。
そこで、妖怪のための学校を創ることを考へたのぢや。出來上がつた学校には、上人の影響から音楽部も創られて、妖怪たちは、歌や踊りに、笛や太鼓の演奏に、それはもう、楽しさうに励んだといふことぢや。小僧の祖先もそこで学んだのは言ふまでもない。

長い年月を経た今でもその学校はあり続けておる。さう、今でもぢや。暇があつたら大原に行つてみなされ、山伏姿で修行をしてゐる天狗に出会ふこともあるぢやろ。学校の名前か?『大原融通念仏流天狗学院妖怪大学』といふ、ちと長い名前ぢやが・・・
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