尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[20]


〜第20回〜
尾州家二代目の殿様光友公と小僧の因縁をお話するには1960年代の後半にまで遡らなければならない。話は少々長くなるやもしれませんが、出來るだけかひつまんでお話することにします、まあ聞いて下され。
小僧がその昔妖怪の学校の試験を受け、それに落ちたといふことは以前お話ししたが、まづ、その話から始めたほうがよいだらうと思はれる。
『お化けにや学校も試験も無い』といふのは漫画の世界の話で、実は妖怪の世界にも学校はある。古くは、役小角(えんのおづぬ)が大和国の葛城山に開いた寺子屋風のものから、天竺は霊鷲山の法道仙人が日本に渡來して播磨国の法華山に開いた道場、中国は雲夢山の白雲洞の主である白猿神の弟子黄猿が日本に渡來して廃寺になつた京都万寿寺に創立した学校などのやうに本格的なものまで、数多くはあらねど、過去にはそれぞれ隆盛を極めてゐた妖怪の養成機関があつた。
あつた、と過去形で語らなければならないのには訳がある。当時、それぞれの学校の開祖は弟子を養成して自分の勢力拡大に努め、生徒たちは師の教へに従つて、よく陰陽を悟り、妖術の法を知り、自分の力をなんとか高めようとした。そして、そのやうな学校の門を叩く非力で未熟な妖怪が後を絶たないといふ、そんな時代もかつてはあつた。
しかし、時代が進むにつれ、それらの学校も凋落の道を辿ることになる。
それは、言ふまでもなく、妖怪の存在感といふものが薄れてきたことに起因する。人間が妖怪に畏怖の念を抱けば抱くほど妖怪の神通力も増すことになる、が、科学の進歩と社会の近代化は人間の意識をがらつと変へてしまつた。
今や人々は、科学で説明出來ないやうな自然現象は無い、と思ふまでになつた。妖怪を恐れる人間よりも、返つて妖怪に懐かしさや親しみを感じる人間の方が多くなる始末。人間が妖怪を怖がらなければ、妖怪の力は甚だ脆弱なものとなる。

昔から人間を怖がらせてきた名のある妖怪たちも、その神通力を失へば、活躍の場が無い。見世物として動物園の檻の中に閉じ込められたライオンのやうに、彼らの多くは、伝説上の主人公、あるいは脇役として、大衆小説や漫画本の中に追ひやられてしまつた。
妖怪がその本來の力を発揮出來ないとなれば、それを利用して権謀術数をめぐらそうといふ権力者も現れない。で、有力なリーダーやスポンサーを失ひ、妖怪の学校の殆どは廃校の憂き目を見ることになつた。
しかし、そろばんが廃れてもそろばん塾がまだ存在するやうに(なんのこつちや)、何百年の時を経て今日まで、細々とながら堅実に、利欲の道に堕ることなく、権力に弄ばれることを拒否し、幾多の苦難に耐えて、妖怪の正しい道を後世に傳へることをモツトーに、その門を閉ざすことなく良心的に経営を続けてゐる学校もある・・・

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