尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[19]


〜第19回〜
小僧は、横須賀の地名の由來を調べることに少しばかり熱中した後、次に横須賀まつりの歴史を調べることにした。
しかし、これも、その成立から発展の過程には謎が多く、はつきりとは分かつてゐない事が多いやうである。
けれども、そのおおよそは『尾張の山車まつり』の記事から知ることが出來た。
知ることが出來た、と同時に驚きもした。その歴史に関係した人々の中に懐かしい名前を発見したからである。
その人の名を徳川光友と言ふ。

そもそも、横須賀まつりは愛宕神社の例祭である。が、鄙びた漁村にひとつの城と言つてもよいやうな豪華な御殿を設え、そこを横須賀町方といふ商業の町に作り変え、愛宕神社を尊崇して祭りを奨励したのは、尾張二代藩主徳川光友公である。
つまり、横須賀まつりが華麗な山車祭りへと発展する、その基盤と環境を作り上げたのはこの光友公である。従つて、この人が横須賀まつりの産みの親であると言つても過言ではないだらう。
と言つても、この殿様、一般的にはあまり知られてゐない。詳細な日本史辞典を引いても、徳川夢声の名はあつたとしてもこの人の名は無い。しかし、尾張や知多の山車祭りフアンならこの人の名を忘れてはならないだらう。
東照宮や若宮八幡社の祭禮を盛大にして山車祭りを奨励し、後の尾張や知多における山車祭り隆盛のきつかけを作つたのはこの光友公である。
父である藩祖徳川義直公は「将軍家も尾張も同格」と主張して、幕府とはいたつて折り合いが悪く、その方針に反発することが多かつた。
謀反の噂を立てられたことも一度や二度ではない。その遺志を継いだ光友公が同じやうに幕府に対して並々ならぬ対抗心を抱いてゐたのは当然のことと言へる。
それは、横須賀の地に「将軍職をヨコスカ、ヨコサヌカ」とばかりに勝手に城塞のやうな御殿を建てたことからも判じることが出來る。

そのやうな殿様ゆえに、当時江戸で評判の、幕府が奨励し公認したことから天下祭りと謳われた山王祭に対しても心穏やかではゐられなかつた。何故なら、この山王祭、将軍の威光と江戸の勢ひを天下に示そうといふ政治的狙ひがこめられた一つのデモンストレーシヨンだつたからである。それが見抜けない光友公ではない。

「よおし、それならこつちにも考へがある・・・江戸の祭りに負けるな、皆の者、江戸より立派な山車を作れえ!」
「政治は江戸に取られる、商ひは大阪に持つてゐかれる、これぢやあ尾張名古屋の立つ瀬がにやあぞ、よいか、祭りだけでも負けるな!なに! 金が要る?トヨタに出させろ」
てんで、豪華な山車を続々造らせた。
附家老の成瀬正虎には
「おみやあのところの針綱神社の祭りももつと派手にせい。犬山商人は金持ちが多いと聞く、これぞといふ豪華な山車を作らせよ。からくり人形も忘れるなよ」
などと、好物のバナナチョコを美味しさうにかじりながら命令する始末。
従つて、この殿様がゐなかつたら、今日、横須賀や犬山の山車祭りはおそらく存在せず、名古屋やその周辺の山車祭りもその後どうなつてゐたか分からない。(非常に独断的)

といふことで、『尾張の山車祭りの父』と言つてもよいくらいの光友公であるが、実はこの小僧、その殿様とは面識がある。
その昔、と言つても、江戸時代ではなく昭和の時代であるが、或る所で小僧はその殿様と何度も話を交はしたことがある。勿論、生身の光友公ではない。光友公の霊である。
従つて、ちよつとしたことがきつかけとなつて横須賀を訪れるやうになつた小僧だが、この殿様の霊がそのやうに仕向けたのではないか、不思議な因縁の力に自分は操られてゐたのではないか、などと思はないではゐられなかつた。
その光友公との邂逅の経緯は小僧にとつて忘れ難い思ひ出である、と同時に読者諸兄にとつても興味深い出來事と言へよう。
元浜線を練つてゐた山車はそろそろ公民館前に集結しようといふところである。その間を利用して、その顛末をこれからお話しませう・・・

novaの独り言
尾張二代藩主徳川光友公は、名古屋市東区建中寺に眠る.
戒名は『瑞龍院殿二品前亞相天蓮社順誉源正大居士』と長〜い.
名古屋市内でも有数のこの建中寺は光友公の発願により建てられた寺で、毎年6月にはこの門前にて筒井町天王祭が行われる.神皇車という山車が曳き廻されているが、この祭りは光友公とは関係ない.
第20回へ
Copyright(c) 1998-2003 nova OwarinoDashimatsuri All right reserved
尾張の山車まつりへ 先ほどのページに戻ります [横須賀まつり訪問記][19]