尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[16]


〜第16回〜
小僧は横須賀がどのやうに変容したのか詳しくは知らない。なにしろ初めて訪れた土地である。横須賀とは縁もゆかりも無いストレンジヤーだから仕方が無い。
けれども、まるつきり知らないといふ訳でもない。横須賀に来る前に若干の予備知識を仕入れておいた。
『尾張の山車まつり』のおかげで、横須賀の歴史についてもある程度知ることが出來た。
しかし、残念ながら、江戸時代の町方としての全盛期の横須賀を知る術は無かつた。横賀を訪れて、その時代の町並みをこの目で見ることは無理だとしても、雰囲気や匂ひだけでも味わひたいと思つた。

そして今、実際に横須賀を訪れて元浜線に立ち、周りの風景を眺めると、江戸時代はおろか、港の開発を横目で見ながら、漁で糊口をしのがなければならない人たちが僅かながら残つてゐた時代の面影をも窺ふことは出來ない。
開発の名の下に完全に消去された自然の横須賀港を思ふと、複雑な思ひに駆られる小僧だつた。

話は少々横道に逸れるやうだが、小僧がわざわざ横須賀を訪れた訳をこの辺で述べておこうと思ふ。それはかうである。
『横須賀』と言へば、それまで神奈川県の横須賀しか知らなかつた小僧にとつて、インターネツトで山車祭りを検索してゐたときに初めて目にした『尾張横須賀』といふ文字は新鮮であると同時にやや意外な印象を与えるものだつた。

小僧は、今でこそ東京をその寝ぐらとしてゐるが、その昔は尾張に住んでゐたといふことは先に述べておいた。
実は、小僧は尾張で産まれ、尾張で育つた妖怪である。しかし、その尾張の或る土地で、人間に成りすまして高校まで卒業した過去をもつ身なれど、『横須賀』といふ町が産まれ故郷の近くにも存在し、古くからの由緒ある山車祭りがそこに残されてゐるといふことは迂闊にも最近まで全く知らなかつた。
従つて、それを知つたときは、蝶を研究してゐる学者が自宅の庭で新種の蝶を発見したときのやうな驚きと興奮を覚えた、と言へば少し大げさではあるが、それに近いものがあつたと言へる。

横須賀の人は憤慨するかもしれないが、尾張に住んでゐたときも何故かその地名を耳にしたことはなかつた。『横須賀御殿』といふ言葉も最近知つたばかりである。中学、高校と部活のラグビーに明け暮れてゐたせいもある。試合の遠征もあつたが、千種から南の方へ足を伸ばしたことは無かつた。
暇なときは女の子ばかり追いかけてゐた。
その頃は小僧も青春真つただ中で、山車祭りよりもそちらの方に興味があつた。妖怪のくせに不届きな奴だと怒らないで頂きたい。

遊びに出かける所と言へば岐阜の方が多く、高校生の分際で、柳ヶ瀬のデイスコ(その頃はゴーゴー喫茶などと言つた)に足繁く通つてゐた。
時には大人を装つてキヤバレーに潜り込んだこともある。キヤバレーと云つても、今のキヤバクラのやうな洒落たものとは違ふ。
場末のキヤバレーで、周りは二十も三十も年の違ふ女性ばかり、酒を酌み交わしてゐてもこれと言つて面白いことは無かつた。

なんだか話が横道の横道に更に逸れてしまつたやうである。話を戻そう。そんな訳で、小僧は尾張横須賀を知ると、一度は訪れてみたいと思ふやうになつた。そこで、訪れる前に、横須賀について幾らか知識を得ておこうといふことになつた。

横須賀について調べた結果、いろいろと興味深い事実に突き当たり、それがますます小僧の心を掻き立てたのだが、山車が元浜線を練つてゐる間を利用して、そのいくつかをここに書いておこうと思ふ。

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