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古くは平田篤胤、少し後の井上円了博士の『妖怪学』に始まつた妖怪の研究は、陽の当たらぬところで地道に静かに続けられてきたが、近年の水木しげる氏の漫画が火附け役となつて、メデイア主導の商業的妖怪ブームといふものが創られた結果、真摯で学術的な研究とは別に、興味本位の、売れるから出す、お金になるから出す、と言つた類の妖怪に関する本や雑誌が次から次へと上梓され、荒俣何某、小松何某と言つた論客が、妖怪について、あーでもない、こーでもないとそれぞれ勝手なことを言ひつつ(それはそれなりに面白いが)たんまりお金を稼いでゐるのは、山車祭り好きの皆様にもご存知のとおり。
そんなこともあつて、今ではあらゆる妖怪が世の中に紹介されてゐる。
『妖怪大全』『妖怪事典』などと言つた本が数多く出版されてゐて、世間からは注目されることも無く、全く忘れられて、闇の中に葬られてゐた無名の妖怪にも、今では明るい光が当てられてゐる。
しかしながら、そのやうな出版物のどこを探しても神楽小僧の名前は無い。
無いといふことは、これらの書物が紛い物(まがいもの)であるといふ何よりの証明でもあるが、そればかりか、多少は労作と思はれるやうな本や歴史学や民俗学の研究者の論文などにも小僧の名を見い出すことは無い。
小僧にとつては憤懣やる方ないことではあるが、それも致し方の無いことと言へよう。
何故なら、この小僧、民話や伝説の類には滅多に現れたことがない。
現れたことがないなら、そのやうな妖怪は存在しないといふのが人間の考へ方である。
これは、民話や伝説の類だけが妖怪の世界を知る唯一の手がかりである、穿つた見方をすれば、それらの中にしか妖怪の活躍場所は無いと考へる人間の誤つた妖怪観から來てゐる。
しかし、人間だけを一方的に責めるわけにはいかない。小僧にもその責任の一端がある。
小僧は、その妖怪の中でも飛び切りのシヤイで謙虚な性格から、昔から今に至るまで、自分といふ妖怪を人間にアピールすることを怠つてきた。人を驚かすやうなことはしない、これといつた悪さもしない、妖怪にしては珍しい品行方正な小僧だつた。(凸山君には悪いことをした、後で財布を届けておくつもりである※第2回参照)
従つて、その人間には好ましい性格が返つて仇となり、人口に膾炙されることも無く、数ある怪異説話集に採り上げられることも無く、非情にもアンダーグラウンドに捨て置かれてきた。
世の中には、メデイアに採り上げられることで評判となり、これと言つた根拠も無しに過大評価されてゐる祭りがある。
それとは反対に、その歴史的価値や芸術性において非常に優れてゐるにもかかわらず、世間からは全く無視されてゐる祭りがある。妖怪についても同じことが言へよう。
この神楽小僧、重要無形民俗文化財に指定されてもよいくらいの、学術的に見ても非常に価値のある、優れた妖怪にもかかわらず、世間からは不当な扱いを受けてゐる。小僧からすれば、甚だ遺憾なことだと言はざるをえないが、その反面、小僧にとつては都合のよいこともある。 |
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