12-02-28更新

常滑市大野祭り〜十王町「梅栄車(ばいえいしゃ)」

町内の記録『梅栄御車之記』によると、天明5年から6年(1785-6)にかけて建造された旧車(先代の山車)は、破損がひどくなったので宮山(宮山村=現常滑市金山)へ売却されたとあります.
この宮山に売却された山車は「栄遊車」といい、宮山で譲り受けたが数年でよそへ転売されたといい、その後の消息は不明です.
※その後の調査でこの話は破談となった事が判明、一説には海部郡方面へ売却されたとも言われます.(HP十人の王様より)

現在の山車「梅栄車」は、嘉永元年(1848)に総費用576両を投じて建造されました.
旧台輪に記された刻銘によると大工酒井屋久七(※1)、楫棒袋町下ル板屋太蔵、彫物長者町彫雲堂勝蔵(※2)、蒔絵同町蒔絵師万七、塗師は伊勢町桔梗屋小兵衛、人形名切町石橋屋仁兵衛(※3)と多くが名古屋の職人によって作られたことがわかります.

からくり人形


彫刻は、高欄に雀、前支輪に松、上支輪に梅、台輪に竜と蝙蝠、懸魚に鳳凰、太平鰭に太陽と月
水引は、蜀江の錦、中国の唐織錦

水引幕
「唐織錦の蜀江の錦」

大丸屋




大幕前面「十王町」の文字は江戸後期の書家市河米庵は

台輪内側の刻銘

御車造営中世話方 名古屋大久保見町 森善七郎為義」、「○車掛名府職人 大工久七」等
塗師、飾師、彫刻師、蒔画師、箔師、縫師など山車の建造にかかわった職人や町内世話人の名前が彫られています.
  (画像提供:yucky氏

大工久七

伊勢門水の「名古屋祭」に次のような記述があります.

『山車の構造に就ても夫れゝ難しい皮骨があって此秘伝を心得ぬ大工等が仕組んだ山車は迚も曳けるものではないと云ふ、それで此祭り車製造の名人と云ふは長島町にお祭り藤九郎と日の出町に天久と云ふお祭り屋があった』

山車作り(ここでは名古屋型を指します)の名人に長島町の「おまつり藤九郎」と日の出町の「天久」があったようで、山車の一流ブランドということでしょか.

お祭り藤九郎」は森藤九郎(棟九郎)で、清須市西枇杷島まつりの橋詰町王羲之車や同西六軒町紅塵車など多くの山車を手掛けています.

もう一人の天久が、この梅栄車の台輪に印刻されている大工久七、つまり名古屋南天道町の酒井屋久七で、お祭り藤九郎同様に多くの山車を手掛けました.橋詰町の紅葉車も天久作です.

彫雲堂勝蔵

梅栄車の彫刻を手掛けた彫雲堂勝蔵は、尾張藩御用の彫物師早瀬長兵衛(彫長)の一門で早瀬勝蔵吉門です.山車彫刻の作品では名古屋若宮祭の福禄寿車、清須市西枇杷島まつり東六軒町泰亨車、静岡県磐田市の大当町屋台などがあります.

石橋舎仁兵衛

名人といわれたからくり人形師隅田仁兵衛真守です.
主な作品に下半田北組唐子車、常滑市西之口雷神車、清須市西枇杷島まつり問屋町「頼朝車」、岐阜県養老郡高田などがあります.「蘭陵王」をはじめ、「張良と黄石公」、「林和靖と鶴」、「頼朝と静御前」などストーリー性のあるからくりが多く残されています.


台輪前面(妻台輪)の「龍と蝙蝠」

台輪側面の「龍と蝙蝠」

支輪彫刻「梅」彫雲堂勝蔵

彫雲堂の刻銘.

前棚支輪彫刻「松」彫雲堂勝蔵

内高欄(惣台)「雀」彫雲堂勝蔵

前棚手高欄「松」彫雲堂勝蔵