10-02-10更新

半田市乙川祭り〜

乙川まつりの起源

慶長17年(1612)に完成した名古屋城は徳川家康の命によって外様諸大名を動員し築城された、いわゆる天下普請の城です.
乙川まつりの起源は定かではありませんが、この名古屋城天守閣石垣の工事を担当したのが加藤清正(当時熊本城主)で、乙川村から産出した大石を荷車様の車に乗せ名古屋まで賑やかに運んだそうで、この故事が乙川祭りの始まりだといわれます.
一説には元禄元年(1688)に浅井山ができ、その後順次殿海道山、南山、西山ができたといわれます.

確実な資料としては宝暦5年(1755)に尾張藩に提出するために作成された「乙川村祭礼山車絵図」の控えが残されており、この頃には既に山車4輌が曳かれていたことが判ります.
この絵図には、獅子を先頭に神輿などの祭礼行列が描かれ、後方に「小烏丸夢ノ助太刀」、「紅葉狩」、「役小角大峯桜」、「富士見西行」のからくり山車が続いています.

乙川の山車


乙川西山神楽車の上山

亀崎西組花王車の上山

外観は白木作りの知多型ですが、乙川の山車は知多半島でも最大級の大きさを誇ります.前述のように山車曳行が八幡社と若宮社の往復がメインで、狭い町内曳きを考慮しないからでしょうか.

特徴的なのは上山の唐破風の曲線勾配が急なこと.
装飾では、上山・前山に錺金具(かざりかなぐ)が多用されていることがあげられます.右の写真で上が乙川、下が亀崎の上山唐破風です.屋根の勾配とともに、金具の有無で違いが際立ちます.

また、乙川の大幕は無地の緋羅紗が用いられ、さらに追幕(見送幕)や吹貫(吹流し)もありません.このことが豪華で重量感あふれる山車彫刻を更に引き立たせる結果となっているように思われます.
刺繍大幕、追幕、吹貫を飾る山車は亀崎を筆頭に半田市内、武豊、常滑など知多型では一般的ですが、乙川系の山車飾りは乙川の他、隣の横松・宮津等の阿久比町に見られます.

御幣

山車上には大きな御幣が載せられています.この御幣は七節半の竹に奉書紙を麻紐で纏めたもので、神の依り代となります.

御幣は各山から依頼を受けた浅井山が材料を調え八幡社の神官に作成を依頼します.
この御幣は、祭礼当日の朝6時から八幡社にて御幣祓式が行われ、各山の氏子総代から中老行司に渡され、山本に運ばれます.

けんか祭り

豪快な坂上げの様子から「けんか祭り」の異名を持つ乙川まつりですが、そのいわれに次のような話があります.

山本の手伝いに出た娘たちが赤いタスキを掛けて、各山車の後ろからゾロゾロついていき、いざ坂上げとなると、八幡社の境内にずらりと並んで梶の取り合いを固唾をのんで見まもっていたそうです.
それで、若い衆にとってはいやがうえにも力が入り、頑張らなくてはならなかったとか.

また、かつて乙川には枝郷として飯盛・向山・平地・新居の四ヶ村があり、枝郷と各山車のかかわりは向山−浅井山、平地−殿山、新居−南山、飯盛−西山になっていました.
祭礼の時には神楽、獅子舞など多彩な催し物がたくさんあって盛大でしたが、奉納する催し物が多く、奉納物の順番や列を組む順序、各組の役割などでもめ事が絶えずあったようです.それで惣代や行司が契約書を交わすぐらいにもめ事が多かったので「けんか祭り」と.

最初に平地が祭礼から抜け、その後大正7年(1918)を最後に向山、新居は祭礼に参加しなくなりましたが、飯盛地区は現在も祭礼の先頭で塩振りと神籬で参加しています.
また近年向山地区は始楽の八幡社で「とびつき太鼓」を奉納しています.

大鳥居を経て八幡社に通じる直線の広い参道は、昭和6年(1831)に完成したものです.
現在の乙川まつりではこの参道に四山が参集し坂上げ、そして坂下ろしをしていますが、昭和46年(1971)までは、八幡社境内のすぐ下石垣の東側の道を通り抜けていました.
ここは現在でも山車が1輌通ることが出来るギリギリの道幅でしかなく、しかも勢いよくコの字に曲がらねばならないため非常に高度な技術を必要したといいます.

糸切り風

乙川は綿織物で栄えたところで、豊田佐吉(トヨタ自動車の祖)が国産初の動力織機を完成し、実用化したのも乙川でした.

旧暦1月15・16日といえば、太陽暦では2月の初旬頃で、冷たい季節風が吹く頃でもあります.綿糸を干すとこの風で切れてしまう.あるいは乾燥するこの時期では織物を織るのに糸が切れて難儀をする.という事から糸切り風と呼ばれました.

昭和45年からは新暦の3月15・16日となり、現在は3月20日に近い土・日に行われるようになりましたが、それでも吹く風は身を切るように冷たく震い上がらせてくれる乙川のまつりです.

乙川村山車祭礼絵図

乙川八幡社に宝暦5年(1755)に描かれた絵図が残されています.尾張藩の命により八幡社神主榊原若狭によって作製されたもので、当時の祭礼の様子が描かれています.

絵図にある4台の山車の上山には先頭から、「小烏丸夢之助太刀」、「紅葉狩」、「役小角大峯桜」、「富士見西行」のからくり人形が乗せられています.(現在に伝えられる人形は無し)

山車は唐破風の前山・内輪の車輪は知多型の特徴そのものであり、箱形の簡素な壇箱に脇障子のない前山など古式の知多型の特徴が描かれています.
しかし、梶棒が描かれておらず山車の方向転換は、山車前方の両端からひき出された綱と、山車後方に描かれている梃子(てこ)を持った人物で行われていたと推察されます.
ただ,何らかの都合で省略して描かれた可能性も否定できず、宝暦年間には梶棒を備えていなかったのかは断定出来ません.

半田市はじめ知多半島の多くの山車は「組」の名の下に山車を運営管理しますが、乙川では浅井山・殿海道山・南山・西山のように「山」と呼びます.この山の単位は地区割りではなく、旧来からの血縁で構成されています.

山本

乙川には山本という古くから続く制度があります.
山本はその山の祭祀をを司るもので、かつては亀崎の車元と同じように祭礼の費用を全部もったといわれ、 囃子の稽古から、山祈祷、祭礼の中の食事等の世話を一切していたので、負担は相当なものだったようです.
現在は稽古や会合など若屋(会所)で行うようになり山本の負担は以前ほどではありませんが、乙川祭りの行事に山本は重要な役割を担っています.

乙川まつりは山本から始まります.まだ暗い試楽の早朝、サヤを曳き出された山車は幕などの装飾も付けずに山本宅に向かいます. 囃子も演奏されません.
山本が遠い場合は2時、3時に出発する事もあります.
山本宅に到着した山車は、ここではじめて山飾り(幕や房)をします.

そして、浅井山から順次山祈祷が行われ、山祈祷が済むと御幣が山車の左後ろに取り付けられ麻紐で固定されます.
山車の曳き出しは「地離し」といって浅井山から殿山、殿山から南山・・・と順に「地離し」の報告があってから曳き出すことになっています.

龍神祈祷

本楽(日曜)の夕方、八幡社の坂を下りた四山はサヤに戻りますが、南山のみは途中でサヤとは反対の方角に100mほど進み山車を止めます.

海に向かって祝詞をあげる「龍神祈祷」と呼ばれる神事で、入水天神に大祭が無事終了したことが報告するものです.

かつては、この龍神祈祷が済むまでは各山はサヤに山車を納めることは出来なかったようです.
現在でも坂の中途にサヤがある殿海道山はサヤの前に山車を止め、龍神祈祷の終了を確かめた後にサヤに山車を納めています.

このように龍神祈祷を行う南山の八幡車は、山車の後部右側に龍神祈祷の幟を飾っています.


山本で山飾りをします

山祈祷
  
御幣を山車に固定します
  
八幡社に向かいます