からくり人形浄瑠璃 |
越智嶋組,四嶋組それぞれ浄瑠璃の外題からとった人形芝居の形式をとっています.尾張・知多で多く見られるからくり人形とは異なるもので,現在では上野間と坂井でのみ伝承されています.
大将は,糸を天井に張った雲道と呼ばれる空中から登場します.空間を踏んで歩く姿は大将の道行きを表し,この大将が空中にいるときを雲使いと呼びます.
一方上山の高欄両隅からは,「大まわし」と呼ばれる出樋いがあり,出樋いの端を支点として半円状に大きく動き回る事が出来ます.
芝居の最後には,三体の人形は縁起物に変身し終了します.
人形浄瑠璃は知立市西町の「一の谷合戦」が著明であり国の重要無形民俗文化財に指定されていますが、知多半島一円にも知多市岡田里組の「悪源太平治合戦記」、常滑市坂井の「軍術挙白旗 鬼一法眼の段」があり、現在休止中では、南知多町北脇の「業平卿八ツ橋の段」、南知多町山海松原の「小烏丸夢助太刀」(上野間越智嶋から譲渡)の遺構が残されています. |
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上野間の山車の特徴 |
上野間の山車は上山が組高欄,前山は擬宝珠高欄になっています.(坂井も同様)これは,一般的な知多型とは逆です.
また,越智嶋組の山車は,梶棒が堂山柱の内側を通っており,狭い道路を曳くことができます.
上山の四本柱は他地区の山車に比べ特に長く,その為樋の形状も工夫がこらされ,中間で保示する支えも必要となっています.
彫刻は両山車ともに立川和四郎の門人である中野甚右衛門が多くを手がけているようです. |
上野間の若衆組織について |
上野間は,近在の大谷・坂井とともに知多半島では数少なくなった若衆組織による祭礼の運営が今も行われる地区です.上野間の若衆組に伝わる古文書は安政6年にさかのぼりますが,現在のような若衆制度がしかれたのは明治政府の奨励策によって,兵役前の若者に対する社会的しつけの一環としてとりあげられたもので,この制度が現在でも若衆組織の中で生き続け伝承されている(美浜町誌より)
入部1年目の当年衆から,ニ年衆,三年目羽織役(使者),四年目人足廻しをつとめ,五年目に仮上(かりじょう、仮の上山)になり,ここまでで囃子方、からくりを務めます.
そして6年目が上山(じょうやま)で高覧四隅で御幣を振ります.(人数が少ないと仮上が乗ります).7・8年目は会長級と呼ばれそのうち一人が会長と呼ばれます.当年衆以下会長級までが若衆と呼ばれ会長が統率します.(初厄の年になります)
若衆を脱退すると,次の年には当年家持(とうねんやも),次に中家持(なかやも),そして大家持(おおやも)となります.この3年間を家持ち(やもち)と言い,この家持ち衆が嶋を統率し囃子、からくりの師匠、指導員となります.
それ以上の組織(若衆が人選し法被を配ります)では綱元見習、梶取り(前)、梶取り(後)、張り綱(ハンド綱)、後見見習、後見、調采方、電線上げ、そして世話人(若衆、梶方のいわばケツを持つ人。)となります.
その後、お〆(しめ)係りを3年務め、警備、綱元(20名)となり還暦で塩蒔きを行ない引退となります.
(この項は小鈴谷・山崎氏の協力をいただきました) |