尾張の山車まつりへ [中ノ筋町陵王車調査報告書考]−[9/11]


■広井洲崎神社天王祭と常盤町

現在の洲崎神社  平成15年撮影

尾張名所団扇絵 天王崎祭礼 森高雅筆

洲崎神社は、江戸時代には広井天王社・牛頭天王社・天王崎神社等と呼ばれ城下の人々の信仰を集めていた。名古屋開府以前からの鎮座であり、城下では数少ない牛頭天王をまつる神社である。例大祭は6月16日に試楽、17日に本祭が行なわれた。7代藩主宗春の時代の享保17年(1732)には堀川で船祭が開始された。御葭船を先頭に、神具を乗せた船、神輿を乗せた船等が行列をつくり、巾下近辺の御旅所へ渡御し、帰りには陸路を行列して還幸した。船行列には氏子達が祭り船を出し、夜には御葭流しの神事も行われるなど多くの見物人で賑わったが、宗春の隠居とともに船行列が廃止され明治21年頃(1888)には船祭も行われなくなった。伊勢門水の「名古屋祭」によれば「その1〜2年後に氏子の花園町・常盤町から若宮祭の黒船に類似した船車を2輛新調して曳出したが是も4〜5年で止め、その後花園町の船車は久屋町の金比羅神社の氏子に売却した。それからの祭礼は只の提灯祭となった」と記述されている。即ち、明治20年代に洲崎神社天王祭に花園町、常盤町が山車を新調もしくは購入し数年祭礼に参加したが、それもとり止めになり、後に花園町は船車を久屋町に売却した。大正5年の名古屋市史社寺編には、金比羅神社の祭礼に船車が存在した記述があり、花園町が売却したことを実証している。伊勢門水は常盤町の山車も船車と表現している為不可解ではあるが、常盤町に山車が存在したことと、売却の記述が無いことから、「名古屋祭」の発刊された明治43年時点では、常盤町が山車を保有していたことは事実である。墨書きの明治27年は常盤町が山車を新調もしくは購入した年を表していると思われる。伊勢門水は「名古屋祭」の中で東照宮祭・若宮祭の内容は詳細に記載しているが、他の祭礼に関しては簡単な記述で誤りや曖昧な表現も多い。常盤町の祭車が船車ではなく、実際は名古屋型であったとしても決しておかしくはないと思われる。尾張名古屋では明治維新になると祭りの衰退期を迎え、山車を売却した町も多々有り、この時期に山車の新調は考えにくい。他所から購入した可能性が強いと思われる。広井洲崎神社天王祭の御旅所が巾下にあったので関係が深く、新道地区の祭車を常盤町が譲り受けたのかもしれない。

享保17年(1732)に始められた船祭  広井天王御祭礼御舟行列図

【参考資料 常盤町周辺の地図】

■修復時に発見された参考資料

1.屋根の解体で発見された新聞の切れ端
・明治32年2月 山車所有後常盤町でこの時期に修理が実施された事が考えられる。
・大正11年7月 旭廓の中村移転(大正12年)が決まり不要となった山車を売却する為に修理が実施された事が考えられる。
2.揚巻の箱から発見された書き付け
・水引揚巻六町内 明治27年に旭廓6町内一同が水引揚巻を製作し常盤町に協賛した事を物語っている。
6町内とは旭廓で山車を所有した花園町・常盤町以外の吾妻町・若松町・音羽町・東角町・富岡町・城代町と思われる。

■応神天皇車の購入地

今回新たな調査により新町の応神天皇車は昭和3年に名古屋の常盤町から購入した可能性が強いと思われる。「常盤町」「朝日神社」の墨書きの発見や新町の言い伝え「名古屋の遊廓街から買った」とも合致し、伊勢門水の「名古屋祭」に常盤町が明治20年代に山車を保有していた記述もある事から、新町が常盤町から購入したことを裏付けできる。常盤町は明治9年旭廓の誕生と共に栄えた町だが大正12年に中村へ遊廓が移転することになり、不要の山車を昭和3年に田原町新町に売却したと思われる。常盤町が山車を保有し、売却した時代背景も一致する。             
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