尾張の山車まつりへ [中ノ筋町陵王車調査報告書考]−[10/11]

■中ノ筋町陵王車との関連調査−山車装飾品再調査


黒漆塗りの階段造りと朱塗りの高欄
舞楽の舞台を連想させる高欄造りから陵王等の舞楽の人形が乗せられていたと思われるが、上山の四面の彫刻等は波、前棚の持送りの彫刻は波に千鳥、旧大将人形台の装飾も海を連想させる為、舞楽と海との関連を調査する必要がある。中ノ筋町の陵王車との関連も含め、陵王と海との関連を調査する。

1.陵王車からくり人形の所作

大将人形に京極太政大臣宗輔公を据へ舞楽の陵王が舞をする。此の故事 は書典通考という書に京極太政大臣宗輔公内裏より罷出て給ひひけるに月、面白かりければ心を澄まして車の内にて陵王の亂序を吹き給ひけるに近衛萬里の小路の辺りにちいさき人の陵王の装束して車の前にて目出度舞ひ見わけり怪しく覚して車をかけはずして榻に尻かけて一曲皆吹通し給ひけり曲、終りて此陵王近衛より南萬里小路より東の隅なる社の内へ入にけり笛曲の神感ありけるにこそ、やん事なき事なり云々とある。若宮祭門前町の陵王車はこの故事をからくりの題材としている。

2.陵王の履歴

実在の中国の王の故事に基づいた舞曲。舞は「陵王」、唐楽の壱越調の曲は「蘭陵王」と呼ばれる。林邑僧仏哲らが伝えたとも、尾張藩主が平安初期に唐から伝えたともされている舞で、競馬、賭弓、相撲、賀の祝などで舞われた。北斉(550年頃)の蘭陵の王長恭が戦いの後、勝利を寿いで舞ったとされる舞で、裲襠装束に身を包み、桴を振り上げて舞う勇壮な一人の走舞である。龍の顔か金翅鳥を表しているとされる金色の面(海中より出現したものの顔との説もある)は、動きにつれて、吊りあごが揺れ、恐ろしさを増す。戦場で軍を指揮するように。味方の士気を鼓舞するため、その美しさを隠し、仮面をつけて、武勇を発揮した。この舞は童舞としても舞われ、『源氏物語』の「若菜下」では玉鬘の子息が舞っている。

景樹の歌に "四方の海さわきし浪は立かへりをさまる時の聲となりにき"
直好の歌に "百千鳥囀るはるの長き日をかへさはいかにひさしかるらん"

とありこれ等は蘭陵王が如何に目出度き曲であるかを象徴している。

今回の解体修復の際、前回より調査している中ノ筋町の陵王車と新町の応神天皇車との関連に不可解な部分が発見された。朱塗りの高欄と黒漆塗りの階段造りは舞楽の舞台の造りである。おそらく上山には陵王等の舞楽のからく り人形が乗せられていた筈である。しかし、上山四面の波の彫刻等や前棚の持送りの波に千鳥の彫刻、旧大将人形台の装飾が海を連想させる。その為、海に関連する題材の所作をする人形が乗せられた可能性も有る。陵王車の所作とは別に陵王そのものの履歴を調べた結果、蘭陵王は大変目出度い曲であり景樹・直好の歌にもでてくる。上記に示した様に海に関連する目出度き歌である。又、一般的に山車の装飾にはトータル性がある。舞楽は寛永年間頃迄尾張では熱田神宮と一宮の真清田神社だけしか上演できなかったという。
新町の応神天皇車の山車本体には「波」や「波に千鳥」の彫刻が施され、大 将人形台は岩場のデザインである。この山車は元々、熱田の浜に設けた"舞楽の舞台をテーマに造作された可能性が強いといえる。故に前回の調査同様山車の製作当初は陵王のからくり人形を乗せていたことを裏付けするものである。常盤町時代に人形が乗せられていたかは不明である。

彫刻 岩と波(上山左側前部)

彫刻 岩と波(上山左側後部)

彫刻 波に千鳥(持ち送り)

旧大将人形台
平成15年9月改修記念の応神天皇車 (9月15日撮影) 
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