07-08-12更新

門水再考〜いにしえの名古屋祭

第2回 東照宮祭「二福神車」〜前編

資料1−道成寺車模型

資料2−戦前の二福神車からくり(個人蔵)

名古屋東照宮の祭礼では、旧暦4月17日に(明治維新まで)9輌の山車が曳き出された。
上長者町は、南北に走る本町通の1本西側、現在の長者町通沿い、京町通交差点(那古野神社南側の信号)から桜通までの地域である。明暦2年(1656)に初めて山車を出したといわれ、、その時上山に飾られたのが『道成寺』のからくり。 女性の頭をつけた大蛇が鐘を巻くという、なんとも気味の悪い人形だったが、初代藩主・義直公の側室である貞松院がこの人形を嫌ったことから、後に竜の頭に変更されたという。

 門水本には元禄年間(1688〜1703)の絵草紙を典拠とした門水筆「道成寺車」の図が掲載されている。 山車の形態は雷電車と同じく、前棚や唐破風屋根のない初期の名古屋型形式である。 この図を元とし、戦後に作られた模型が名古屋城に保管されているので、参考までに紹介する。

 享保17年(1732)、道成寺車を廃止して二福神車を新造した。
 からくり人形は、現在の中村区・下花車で見られる二福神車の元となった形態である。
下花車のものに比べると、蛭子・大黒とも若干細身であり、宝袋中から現れる宝船は西区・比良にある二福神車に近い姿であったと思われる。
基本的にからくり人形の形態は、昭和20年の戦災まで変更されなかったとみられるが、門水本では宝暦年間(1751〜1763)、大黒人形の後ろに米俵が積んであった、 と紹介している。しかし、後述する第1期を示す「張州雑志」の図では米俵は確認できないため、今後の研究を要する。
 一方、大幕・水引幕については4回の変更が為されている。

【道成寺】

平安期の「道成寺縁起」にある伝説。
奥州白河から熊野参詣へ出かける僧・安珍に一目惚れした少女・清姫が、裏切られて激怒のあまり蛇身に変化して後を追った。 安珍は道成寺にある鐘の中へ逃げ込んだが、蛇身は鐘に巻きつき、鐘中の安珍を焼き殺してしまった・・・という話。
能『道成寺』は、その数百年後の後日談で、鐘を再興するに際し、女人禁制で鐘供養をしている道成寺へ白拍子(実は清姫の怨霊)が現れて鐘供養を妨害する、という設定。

【貞松院】

おさゐの方。元は朝廷の女官で、初代尾張藩主・義直公の側室。寛永3年(1626)に鶴姫を出産し、寛永14年(1637)に正室の「お春の方」逝去後は江戸で暮らした。 慶安四年(1650)の義直逝去後は名古屋へ戻り、娘の鶴姫が広幡大納言忠幸卿と結婚するまでは名古屋城の二の丸で暮らし、その後三の丸の東北隅に移住し、 「三の丸様」とも称された。貞享元年(1684)に享年77歳で逝去、政秀寺(中区)へ葬られた。

第1期  享保17年(1732)〜寛政11年(1799)

 大幕  紺地菱繋ぎ団扇に丸紋散し金襴
 水引  猩々緋地立浪文金襴

この時代の姿は、「張州雑志」などで見ることができる。なお、同書には大幕の文様について「紺地金襴」としか記されていないため、図を元に筆者が命名した。
この団扇の文様は「軍配団扇」ともいい、「扇いで神を呼び寄せる道具」として古くから尊ばれた文様である。
二福神を載せる山車であることから、幕の文様に採用されたのであろう。
また、いくつも散らされた「丸紋」は、何を形象化したものか、この図だけでは判断できない。

 水引幕はこの時期だけが猩々緋である。大幕の紺色に対応したものであろう。
「立浪」の文様は海辺で鯛を釣る蛭子に因んだものであろう。