トピック2001兼今週のアングル2001

01/3/22


 先日お伝えした犬山・外町「梅梢戯」の水引幕下絵の撮影が終わった時の事です.下絵の箱を片付けようとしたら,スチールの保管庫に古びた男女の人形の頭が二つあったのです.
 それは,大人の拳程度の大きさで,塗りは剥げて随分古いもののように思われました.
 顔の造りや表情も,現在の尾張系の山車に乗るからくり人形のそれとは随分違ってみえます.もちろん,現在の外町『梅梢戯』の唐子とは明らかに異なるのは一目瞭然です.
 ただその時は,頭の後ろに付いた真鍮の金具が,魚屋町「真先」の天女に似ているなと思っただけで,一応参考のためにと,数枚デジタルカメラで撮ってだけなのでした. 

 その後,犬山から戻って何気なく見た『犬山祭行粧絵図』.これは寛政7年(1795)に描かれた絵図なのですが,この外町の車山をよく見ると,現在の「梅梢戯」とは違うようで,
車山の三層から左右に張り出した出樋に,真ん中から割れた丸い作り物が二つ.そしてその内側に人形が二体見えます.
 絵図には『七夕』と書かれています.七夕といえば,年に一度七夕に出会う牽牛・織女の物語ですが,この寛政の絵図にある七夕のからくりが,どのようなもので有ったかは判りません.絵図から推定する限りでは,車山の外に張り出した左右の星が割れて,中から牽牛織女が現れるようなものではないでしょうか.
 その人形が先程外町で見た人形に,よく似ているのです.特徴ある金色の光背(後光か)らしきモノも双方の人形にあります.また頭も男女であり,断定は出来ませんが,これを牽牛・織女と推定するのは早計でしょうか.

 外町のからくりは「梅梢戯」で梅の梢で倒立する唐子で,文政10年(1827)に5代目玉屋庄兵衛によって作られたものです.
 外町は延宝2年(1674)から車山を出し,からくりは「七夕」だったといわれますので,「七夕」が演じられたのは,1674年〜1827年の150年余りの間,今から約170年から330年前の事になります.
 この外町に残されている人形が,この時代のものである確証は何一つありませんが,京都系のそれもかなり古いものであることは間違いないようです.
 はたして,この人形が寛政7年の行粧絵図に描かれた「七夕」であるのか,専門家による調査により明らかになることを願います.
 また,保存環境も,今ひとつ考慮されることを期待.


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