[中ノ筋町陵王車調査報告書考]−[8/11] | |
■旭廓と常盤町 尾張七代藩主徳川宗春が城南に三つの遊廓をつくったが幕府の弾圧で消え、以来名古屋に遊廓と名のつくものはなかった。明治6年(1873)愛知県会は中区日出町辺りに遊廓設置を許可、同9年に地域を広げ、大須観音の西の吾妻町を南の端とし、北へ若松町、花園町、音羽町、東角町の坂を下りたところが紫川で、これが北の端。東へ富岡町、城代町、日出町で、東の端。常盤町は西の端で、御園通りの南部に位置した。南北400メートル、東西200メートルの中に、最盛期は妓楼173軒、芸妓112人、娼妓1618人を数えた。日出町に通じ縁起をとって「旭廓」と名付けられたが「北野新地」とも呼ばれた。又、日出町は別名、朝日町とも呼ばれた様である。旭廓は大正12年(1923)4月1日、中村(中村区)へ移転し、日本三大遊廓名楽園となった。 |
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次に屋根の棟木に書かれている朝日神社の墨書きを調べることにする。朝日神社は一般的には広小路の神明社を挿すが、墨書きの朝日神社は下記の記述の様に日出神社を挿すと思われる。 |
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■日出神社と日出町(常盤町) 日出神社は中区日出町上ノ切の南側に有り、もとは愛宕社が有った場所である。愛宕社は初め春日井郡清須朝日村に在り愛宕大権現と称した。慶長16年清須越しでこの地に遷座した。明治初年村社に列し、42年7月修造遷宮と共に、同町の神明社を合祀し、同年9月今の名に改めた。祭礼が正・5・9月14・15日。神明社は当社の西北に位置し天道宮又は朝日天道社(朝日神社)とも称し愛宕社と同様に清須越しでこの地に遷座した。祭礼は14日が神楽、15日は湯立を行なった。日出町は万治年代に町屋ができ、天道社が鎮座しているので天道町又は南天道町と称した。明治4年に北野新地・御園下新町(後の常盤町)を併合し、明治5年日出町と改めた。常盤町は江戸時代は武家屋敷町で藩の御先手足軽が住んでいた町で明治9年旭廓の誕生で栄え、明治11年に地名を常盤町に改めた。一時的に日出町であった時期もあり朝日天道社との関わりが強かったことと思われる。事実旭廓の町内は日出神社・洲崎神社の氏子区域が存在している。 (常盤町は明治4年に下御園町・御園片町・御園新町の一部が併合しできた下園町の一部と日出町の一部から成り立つものと思われる。) |
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次に常盤町が山車を所有した事実があるかを調べる必要がある。常盤町は洲崎神社の氏子であるので当社の祭礼を中心に調べることにする。 |
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