この時代を示す資料は徳川美術館や東京国立博物館所蔵の絵巻物のほか、「尾張年中行事絵抄」など、比較的多く残っている。
徳川美術館蔵の絵巻は画家の森高雅が文政4年(1821)に尾張藩からの命を受け、山車町内からの協力を得て製作された絵巻物である。
門水本では、大幕の文様を「遠州緞子・・・」としているが、正確には「碁盤割り」文様である。
水引幕は第1期と同じ「立浪文」であるが、地の色が大幕と逆転している。紺と緋の色合いがよほど良いとされたのであろうか。
寛政4年(1792)〜元治元年(1864)
鉄砲町(現在の中区栄2・3丁目)生まれ。
吉川一渓に狩野派、牧墨僊に浮世絵・美人画、中林竹洞に南画を学び、晩年には土佐光貞に就いて復古大和絵の画法も取り入れた。 門人が多く、日比野白圭、木村金秋、小田切春江、鬼頭道恭らがいる。呉服町一丁目(現在の名城小学校周辺)にて73歳で没した。
江戸時代初期の茶人・小堀遠江守政一(1579-1647)が好んだ名物裂のことで、石畳文様もしくは市松文様を織り出し、七宝と花柄を交互に配したもの。 二福神車の大幕は、猩々緋地に金糸で桝目を縫いだしており、色変わりの裂地で市松文様を織り出した遠州緞子とは明らかに違うが、「遠州緞子」に見られる七宝文を幅広く「宝尽くし」にするなど、意匠の連想性は認められる。
有名な「尾張名所図会」にもこの大幕が描かれている。
第2期の大幕を裏返し、そこへ大柄の「宝尽くし」文様を金糸で縫い出したものである。
資料を見ると、隠れ笠・珊瑚・鍵・宝槌・巻物・宝珠などが 描かれている。大黒が宝槌を振り下ろし、割れた宝袋の中から出てくる宝物を意味した意匠である。
そもそも「宝尽くし」文様とは、吉祥・招福を願う気持ちの象徴であり、元は中国の八宝に由来し、日本では 「如意・宝珠・宝やく(鍵)・ 打出の小槌・金嚢(宝袋)・隠蓑・隠笠・丁字・花輪違(七宝)・金函」などが代表的である。
この幕の下絵を描いたのは森高雅で、元治元年(1864)に新調された浪の彫り物(宝袋前に飾る)の下絵も彼が担当したという。 文政4年(1821)、30歳の時に資料4の絵巻物製作に関わり、それを契機として各地区の山車装飾の依頼を受けたようである。 折しも名古屋は山車建造ブーム、高雅の画家としての黄金期と重なったことが幸運だったといえよう。
享和2年(1802)〜明治12年(1879) 岐阜県不破郡今須(現在の関ヶ原町今須)の生まれ。若くして京に出て、画を岸駒・岸良に学ぶ。 その後東国に遊歴して文人墨客と交わり、嘉永初年(1848頃)に名古屋へ来て、広井水車町(現在の名駅南2丁目、蓮華寺西方周辺)に定住。 尾張藩の御用絵師を勤めた。
門水本では、水引幕に関してのみ、元治元年の「御神忌」の際に新調(徳川家康250年忌の2年前であるため、それに備えてということであろう)と明記しているが、おそらく大幕についても同時に猩々緋の無地幕へ替えたものと思われる。
この時代の様子を描いた絵画資料は、幕末維新という混乱期ということもあって少ない。
資料6は、尾張藩最後の御用絵師を勤め、明治3年(1870)に没した松吉樵渓による二福神車図である。 右側には無地の猩々緋大幕を着けた猩々車(本町)が描かれており、少なくとも文久2年(1862)以降の祭礼を描いたものと理解できる。
二福神車の水引幕にあるべき文様「有職浪丸紋」が省略されてはいるが、江戸最末期の様子を描いた資料として貴重である。
水引幕の「浪丸紋」は有職故実に則った文様であり、尾張の復古大和絵画家として名高い渡辺清の下絵であると、門水本に記されている。
清は文久元年(1861)に没しているが、それまでに下絵が出来ていたものか。
第3期における森高雅との絡みを考慮すると、清の下絵とは俄かに断定はできないが、単に有職故実に明るい清の考案した文様の素材を、上長者町が採用した、ということかもしれない。