門水本をパラパラとめくれば、現代人には見馴れない町名が次々と目にとまる。 明治から戦後にかけた、度重なる町名変更・統合などによって、古い地名がことごとく地図から消えていったためだ。 因みに筆者の生まれ育った町は中区栄3丁目で、戦前は「矢場町一の切」と称した。 なんとも味のある響きではないか。現在は若宮八幡社のお祭り町内または町内会として「矢場町一丁目」という呼称が残っている。 筆者の知己の中に、和紙の名刺にわざと古い表記の住所を書いて自己紹介するという、粋な人がいるが、郵便番号が7桁までにもなったのだから、 住所表記は昔に戻しても良いのではないか?
さて、話を本題へ戻そう。門水本では古い町名やその地域が理解しにくい上、紹介されている山車祭りが催行されていなかったり、 また区画整理等によってかつて山車を持っていた町そのものが廃絶してしまったケースすら見られる。 そのため今後人々からの認識が薄れてゆくことが懸念される。
そこで今回は古今の地図を照らし合わせ、門水本で紹介されている山車を持っていた地域を紹介する。 第1回目は、江戸期に三の丸天王祭の車楽へ提灯を献燈した、廣井村の南部に焦点をあててみたい。 本年(平成19年)、那古野神社(旧三の丸天王社)祭礼へ廣井の三車が奉曳されたことは記憶に新しいが、 では「廣井」とはいったいどの辺りをいうのであろうか?
資料1は元文3年(1738)の名古屋城下を示す地図である。参考のために現在の幹線道路に赤ラインを入れ、主要な交差点も示した。 緑色の地域が「廣井村」で、現在の西区那古野一丁目、中村区名駅五丁目、名駅南一丁目が主要部分である。
主な村域は堀川と江川の間で、北は円頓寺周辺、南は蓮華寺周辺までで、西側は一部柳街道(現在の柳里神社辺り)沿いや 現・笹島中学校周辺も含んでいる。
厳密にいえば、堀川東岸付近も村域に入れるべきかもしれない。名古屋城築城に伴う堀川開削の際、おそらく廣井村は東西に分断され、 堀川東岸は城下町へ組み込まれたと思われる。泥江縣神社(図中赤丸部分)や州崎神社が、かつて「廣井八幡社」「廣井天王社」 と呼ばれていたことは、その名残であると考えられる。
しかしここでは、江戸後期に見舞車を有した町の紹介が主題であるため、やはり緑色で示した村域を「廣井村」と定義付けする。
ここ廣井村からは江戸後期、三の丸天王社の車楽に提灯を奉げる「見舞車」が曳き出された。 門水本で紹介されている見舞車については、中ノ筋町陵王車調査報告を参照されたい。
その見舞車を有した町として今回紹介するのは、現在の錦橋以南、名駅五丁目・名駅南一丁目の地域である。
明治11年(1878)まで「張良車」を保有した町。同車は現在、「雷神車」(⇒参考)として常滑市西ノ口祭礼に曳行されている。
なお、明治11年は町村改編で「東柳町」が誕生している。山車売却と関係があるかもしれない。
『名古屋市史』(大正5年)には「戸田道より二筋目北、それと並行の横筋なり」とされているが、『尾張志』(天保9年)には「 河原筋(現在の光明院前の道筋)の西なる縦横の町々也。廣井村の中央に当たれる所故にかく呼べり」とあり、 『名古屋市史』と違って、資料2に示した「中之切」の道筋だけでなく、その周辺であるという表現をしている
資料3の緑色部分は、平成18年11月に竣工した「アクアタウン納屋橋」という超高層マンションである。
先述した『尾張志』の指す「中之切」町域をほぼ覆う形で再開発されてしまったのである。
そのため、資料2で示した「中之切」の道筋は完全に滅失してしまった。
江戸時代、海東郡戸田村(現在の中川区戸田周辺)は、尾張藩主への献上米を生産していたという所縁で、山車の祭り(⇒参考)を許可されたという。
戸田村から柳街道、そして御城下へ通じる道として「戸田道」と名付けられたという。
門水本には「弁天車」を所有したと明記されているが、山田鉦七著『郷土の山車写真集』には「禰宜町の山輌」として紹介されている。 明治11年の町村改編で「禰宜町一丁目〜三丁目」となったためである。昭和8年(1933)の名古屋市役所竣工記念式典「大名古屋祭」 にも内屋敷町・唐子車と共に参加しており、その後の戦災で焼失したものと思われる。
『金明録』文政4年(1821)の記述によると、戸田道に2輌の山車が存在したとされるが、江川以東(禰宜町一丁目)と江川以西 (禰宜町二・三丁目)で持っていたのかもしれない。 なお、資料3中の黄色部分が戸田道で、南に折れるまでの道筋は昔のままである。
この地域では唯一、現地に唐子車(⇒参考)が現存している。
白龍神社は『名古屋市山車調査報告書6』によると、昭和32年の江川通拡幅によって現在地に移転され、それ以前は津島神社と共に内屋敷町の南の 外れにあったと記されている。資料3を見ると、町域北西角の江川沿いに祀られていたことがわかる。
門水本には明治20年頃まで胡蝶車、さらに詳細不明の1輌を所有していたと記されているが、山車についての詳細な資料は他に見当たらない。 但し、『金明録』ほかの古文書よると、複数の山車が所在したことは明らかである。
かつて廣井八幡社(現・泥江縣神社)の禰宜が住んでいたという所縁の町名であるという。 資料3の紫色部分が町域で、実際はさらに200m西方まで続くが、地図の構成上割愛した。 明治11年の町村改編で「戸田道」と合併したため、明治17年地籍図の「禰宜町四・五丁目」が旧禰宜町にあたる。 資料2の左端にある「柳天王」は現在の「柳里神社」で、ここまでを「禰宜町」と称したことがわかる。
この「禰宜町」の道筋は烏森までを別名「柳街道」といい、「一柳ノ庄」(現在の高畑周辺か?)へ通じたことから名付けられたという。