美濃の山車まつり紀行
   〜垂井曳山まつり

文・写真:古伝馬

毎年5月2・3・4日
美濃地方と言っても東西に広く、西美濃は近江の影響がみられます。垂井曳山まつりは長浜曳山祭と大変よく似ています。
起源はどちらが先かはよくわかりません。14世紀ごろですから垂井の方が祭りとしては古いかもしれません。
試楽は所用があり本楽のみ拝見してきましたが、試楽の夜祭りの提灯点灯は厳格な灯火管制で、町中の明かりをすべて消灯した状態で行われるそうです。この例が示すように伝統を忠実に守られている祭りです。
曳山は三輌で、西町の攀鱗閣(はんりんかく)、中町の紫雲閣、東町の鳳凰山(ほうおうざん)共に長浜の曳山と同じ前部に舞台を備え金の金具に黒漆ぬりですばらしいものです。ただ、当日は朝から雨で雨よけのビニールのシートがかけられていて全部はみられませんでした。
(地元では「曳山」の山と言う字はくるまへんに山と言う字をあてています。)<変換できません>
この舞台で「子供歌舞伎」が上演されます。見る前は小学校の学芸会程度かなあと思っていたのですが、とんでもない。衣装、踊り、所作すべて本物の歌舞伎の指導をうけていてそれはすばらしかったです。
当番山が毎年順番に入れ替わり今年は一番山「紫雲閣」三番叟、生写朝顔日記、二番山「鳳凰山」絵本太閤記 十段目尼ヶ崎の段 、三番山「 攀鱗閣 」義経千本桜 吉野山道行き場 と なじみの深い外題もあり十分楽しめます。
出演する子供は小学3年から6年生の男子と限られています。芸児(げいじ)と呼ばれます。当然、女形の子もいるわけで、三番山の義経千本桜の静御前などはみごとに演じていて見ている観客などは「本当に男の子?」というほどきれいでした。
それぞれみな上手で、二週間ほどの稽古なのですが子供なので覚えも早いのでしょう。あまり長く稽古するとイヤになってしまうから二週間で十分だそうです。
本楽は本物の歌舞伎と同じように古式練込み(お練道中)をします。市役所前に勢揃いした芸児が、八重垣神社まで行列行進しますが、この列を決して横切ってはいけないそうです。二階から見下ろすのも厳禁と言われています。
それだけ格式があるということのようです。神事であり神様に奉芸(ほうげい)する大切な役割なのでしょう。神社に着くと一人づつ神職におはらいを受け、それから奉芸するわけです。
垂井曳山まつりの伝統重視の運行上の最大の見ものは八重垣神社の前に整列した山が一台づつ神社の中心の線と山の中心線を厳密に合わせるところです。とにかく慎重に総代という役の青年二名(30歳までの男子)が何度も何度も行ったり来たりして縦の線横の線を扇をかざし山を動かして所定の位置に固定させます。そして、他の二輌の山の総代に確認してもらいます。
この確認もそれは慎重に行われます。山の中心も神社の中心も線が引いてあるわけではなくまったく確かな根拠があるわけではないのですが、きっと見た目でちょっとずれてる場合もあると思いますが、三輌の総代6名が集合しなにやら話をして「いいでしょう」ということになるようです。
昔は、仲の悪い町内だった時代もあったようで「ずれてる」と言われケンカになったこともあったようですが、今では一種の儀式のようになってるように拝見しました。きっちりするんならレーザーで芯出しすればいことなんだし。
山を曳いて歩くのは協力会という青年OBがあたります。運行の指示をするのは総代が行い、その指示を舞台の上の屋根に乗っている青年が声で合図をします。マイクを通しているのかとても大きな声です。
梶棒は先端に横に渡した棒があり、山の転回は少し持ち上げ気味に廻します。とても重そうだし30歳以上の人達があたりますのでズルズルと行くほうが多かった様に思いました。
八重垣神社での奉芸が終わると他町内でまた子供歌舞伎を上演します。客山巡行演技です。なので子供たちは試楽、本楽、後宴で4〜5回上演することになります。
垂井は中山道が通り、南宮大社(美濃一の宮)もあり美濃の中心地だった所でした。町並みは古い旅籠や商家も多くかつての繁栄を思い起こさせます。
役員、協力会、青年にいたるまですべて紋付はかまで、山が移動する時は全員がそろいの扇を上下にふり見た目がとても美しく、オトナの落ち着いた良い印象の祭りでした。

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