令和5年3月5日、半田市乙川地区浅井山宮本車の上山からくり人形の御披露目式が行われました。
小烏丸夢之助太刀
浅井山の上山からくり人形はこれまで「唐子遊び」が演じられてきました。
この人形は地元の山田利圀氏が平成9年に新たに製作したもので、高さの異なる杭を次々に渡るという「乱杭渡り」のからくりです。
一方宝暦5年(1755)の「乙川祭礼絵図」には4輌の山車にそれぞれからくり人形が描かれており、先頭の浅井山の上山には2体の人形が描かれ、その注釈から「小烏丸夢之助太刀」人形が載っていたことがわかります。
浅井山ではこの人形戯は明治末期まで演じられていたと伝えられていますが、残存する人形の部材が半田市博物館に保存されていたため、これらを基に令和3年より九代目玉屋庄兵衛氏が復元新調に取り掛かり翌令和4年3月完成しました。
この復元に際して残存する部材が一部であり人形の操作法も不明で、それにも増して演目の次第も分からない状態だったとのこと。今回のお披露目までに相当の苦労があったと聞きます。
からくりは平忠盛、八咫烏(やたがらす)の二体の人形と、さらに神剣「小烏丸(こがらすまる)」と大蛇によって演じられ、上山には大蛇が昇降する木が据えられます。
桓武天皇御代、天照大神の使いである八咫烏(やたがらす)が宮中南殿に舞い降り、帝(桓武天皇)に霊験あらたかなる神剣を授けました。帝より「小烏丸」と名付けられたこの神剣は、その後平家一門が拝領し、累代に受け継がれました。
時は流れ幾年月、平家の棟梁平忠盛が六波羅池殿の館にて転寝をしていた時、夢うつつのまどろみの中、庭の池から大蛇が現れ、忠盛に襲いかかります。すると忠盛の傍らに置かれていた「小烏丸」が霊力を発揮し、自ら鞘から抜け出て大蛇に斬りかかり、最後に切り伏せて忠盛を助けます。その後、八咫烏が現れ、忠盛に治世の訓示を与え、神の威徳を寿ぐという神妙不可思議なる物語です。
※浅井山連中作成の資料による
この絵図は宝暦5年(1755)に尾張藩が尾陽村々祭禮集を作成した際に村々から絵図を添えて出されたものの写しとされます。
《注》尾陽村々祭禮集は宝暦5年8月に九条家より委嘱された尾張藩の命により領内村々の祭礼を調査したもの。尾州100余の祭礼が集められたという。(原本不明)
祭礼図は知多半島では八幡宮祭礼式の図(現知多市八幡神社)とともに当時の祭礼様式を知る貴重な史料となっています。
その祭禮集に
『正八幡宮祭礼正月十六日村北若宮八幡宮へ渡御獅子舞山車4輌引渡~(略)~山車幕木綿人形衣装今織類、小烏丸夢之助太刀からくり右同断、楓狩車一輌、役小角大峯桜一輌、富士見西行からくり車一輌、各ざいふり下段に居、右神主同村榊原若狭』
とあり宝暦5年には4輌それぞれの山車にからくり人形とざいふりが載っていたことがわかります。
浅井山「小烏丸夢之助太刀」、殿海道山「紅葉狩」、南山「役小角大峯桜」(平成19年復活)、西山「富士見西行」
また祭礼絵図の巻頭にも
『知多郡乙川村正八幡宮一社祭礼毎歳正月十六日神輿当村若宮八幡境内まで引き幷獅子舞山車四輌村方より指出右神輿跡より若宮八幡迄引渡し申候絵図』
とあります。
八幡社の坂を上がった宮本車は境内に据えられ、半田市内各山車組来賓者が見守ります
口上の後、平忠盛が扇を手に持ち舞います
忠盛がくつろぎまどろむところに大蛇が現れます
大蛇はスルスルと高い木の上まで登ります
小烏丸が鞘から抜け出て大蛇と対峙します
やがて大蛇は切り伏せられ征伐されます
後部の御簾が開き黒装束の八咫烏が登場します
瞬時に変身
八咫烏が扇を持ち舞います
式典の様子
九代目玉屋庄兵衛氏の挨拶