筒井町「神皇車」の三色縦継古幕

07-12-02更新

神皇車

神皇車が文政7年建造の根拠となっていた雨覆箱

名古屋市東区筒井町の神皇車の大幕は青色地に金糸銀糸で波に千鳥を刺繍したものです.高欄や屋根の朱色とともに神皇車を鮮やかに彩り神皇車の最大の特徴になっています.
この神皇車の前歴は広井村新屋敷(現名古屋市中村区)が所有した「神功皇后車」で、三之丸天王祭に曳き出されていた見舞車を明治20年(1887)に筒井町が購入したものです.

この神功皇后車は今まで文政7年(1824)建造とされ、その根拠となっていたのが雨覆の箱に記された『文政七年 申六月吉日』の墨書でした.

神皇車には現在使用されている青幕以外に、古い大幕が保存されており、この古幕に興味ある事実が記されていました.
幕は前後左右4枚で、表面は後述するように三色の縦継ぎで仕立てられています.
右側面の裏地に多数の人名と共に『文政元戌寅年 六月吉日』と墨書されています.つまり文政元年(1818)6月にこの幕が出来たということです.

文政元年といえば、同年の高力猿猴庵の「猿猴庵日記」に次のような興味深い記述があります.

片端試楽は、一五日八ッ比より快晴故、都合能。今年当番は
先、広井、跡、車ノ町也、夫故、広井戸田道辺より見舞車多く、
御園町筋大賑合也。益屋町車、当年仕替、大振に成。見舞車、
何れも見事也。

文献で「見舞車」の言葉が最初に現れたのがこの文政元年であり、この年には既に見舞車が多く曳き出されていたことがわかります.
また、u屋町車(靱猿車のこと.現在美濃市に現存)がこの年に大きくなった事と、『見舞車、何れも見事なり』という記述から、同年に新調されたこの古幕は見舞車が既にこの頃には本格的な山車であった事を裏付ける貴重な資料ということになります.
また、従来神皇車の建造は今まで文政7年とされていましたが、この幕の存在により文政元年、或いはさらにそれ以前までに遡ることがわかりました.

また左側面の裏地にも40名ほどの人名が墨書きされていますが、いずれの幕も裏地の墨書きが入れ違っていたり縦横が違っており、一旦解きほどかれ、再び縫い合わされた形跡があります.
これは筒井町で購入後の明治34年(1901)に空木立ちを大きく変えた際に、幕の寸法が合わなくなった為改修した痕跡のようで、左右側面の幕は不足分を縫い合わせ前幕は新たに新調したと伝えられます.
なお、現在使用している青地の大幕は昭和28年(1953)に新調していますが、その後も昭和末期までこの古幕を使用したこともあったようです.

右側面の裏地:バラバラに縫い合わされているが、『文政元戌寅歳 六月吉日』の文字が2ヶ所に見える. 左側面の裏地:右側同様に人名が書かれているがこちら側には年月等は記されていない.

一方、この古幕の表側は、左右の側面が[緑・赤・青・赤・緑]と三色の縦継ぎの意匠、前[赤・青・赤]と後ろ[青・赤・青]の二色の縦継ぎになっています.
前述のように明治34年にはこの幕も手を入れられたようで、詳細に観察すると一部にその痕跡がみとめられます.

縦継ぎの三色幕と言えば、同じ筒井町の「湯取車」も偶然ながら、同じ縦継ぎの幕を使用しており、特に側面の配色は全く同じです.
湯取車は万治元年(1658)に桑名町(現名古屋市中区)で建造された東照宮祭の祭車「湯取神子車」の古車を譲り受けたもので、この三色縦継ぎ幕は文化12年からとされています.
神皇車が筒井町に譲られた明治20年以降、この筒井町の2輌の山車が共に縦継ぎの三色幕で曳かれていたのです.

平成16年10月22日撮影

左側面
両端の緑布と中央の青布は同寸の2枚の布が縫い合わされて構成されている.
右の赤布は中央寄りに別布が10数センチ加えられている.

前後の幕
前後で配色が逆になっています.
左側の幕が前部の幕で、右が後部の幕です.
前後で配色が逆になっているため、山車の後半部分は赤色が交互にならないのですね.


桑名町時代の湯取車の刷物

現湯取車の縦継ぎ三色幕は平成4年に復元新調.
取材協力:加藤善久氏
助言・資料提供:大内裕二氏
参考資料:名古屋市山車調査報告書5
       鬼頭秀明氏他著