04-06-5

龍神唐子と龍神太鼓の里帰り

 名古屋市東区出来町の中之切には文政4年尾張10代藩主斉朝公から御庭車を拝領したという言い伝えがあり、これが戦前まで当地の天王祭で曳かれていた「石橋車」です.
 この「石橋車」は惜しくも戦災で消失し、戦後中区住吉町から「河水車」を購入しました.
からくり人形は能楽の「石橋」に由来する旧来から中之切に伝わるからくりです.
 今回中之切山車保管庫(山車蔵)で披露されたのは旧「河水車」のからくりで、名古屋市博物館で展示保管されていますが、関係者の尽力で25年振りに里帰りしたものです.
河水車のからくりは、一人の唐子と前に太鼓があって、その太鼓から龍神が出て舞をするものだったようで、能の「河水」を題材にしていました.
震旦国の傍らに河水という大河がある.此河が一時旱魃して國民が苦しむと云ふので國王は臣下に命じて河水の検分をさせた處全く河には一滴の水も無い、其川向こふに一人の女が立ってをるので何者じゃと誰何したら女は此川の主の龍女であるが百官の内一人の男を妾に給ふならば此の川水を元の如く氏如くし五穀成就を守らんといふので早速此事を國王に奏問に及んだ、そこで宮中では大評定の結果一人の臣下を龍女に興へたので、龍女は悦んで男を引倶し竜宮さして消へ失せたと見る間に河水は忽ち充満して慈にはじめて國民は安堵の思ひをした、其後竜宮から一ツの太鼓を國王に献上したが此太鼓が又奇妙な太鼓で常には叩いても音を發せず何か凶變のある前兆には撥をあてぬに自から鳴動するといふ稀代な太鼓で其太鼓が或夜突然と鳴り出したのでサア大變と宮中は大騒ぎとなつた時早南門をさして陳啓司と云ふ賊軍が押寄せて戦争をはじめた、太鼓はますます鳴って鳴って鳴り響き遂に二ツに鳴り破れた其中から太鼓の精靈龍神が顕はれ賊徒を退治したといふ面白い筋の能楽である.
〜伊勢門水「名古屋祭」より
 

龍神唐子 作者不明


龍神太鼓

太鼓に龍神を納めたところ


頭部が更に胴に収まるようになっている

龍神太鼓が開いたところ
糸からくりで開く
龍神太鼓 制作年は不明だが、極彩色に彩られた前後面の丸龍は張月樵の筆.文政年間に修復したという.


太鼓の背面

太鼓の背面には「月樵」とある
※張月樵(1772〜1832) 近江彦根の表具師の子として生まれる.名は行貞.はじめ市川君圭に学び、京都に出て僧月僊、松村呉春に教えを受ける.山水人物、花鳥獣などを得意とするが、のちに名古屋に住む.藩命により名古屋城内の杉戸襖を描き、用人支配となり帯刀を許された.
「江戸後期からの日本画〜花鳥風月の世界〜」一宮市博物館収蔵品展図録より
西枇杷島・東六軒町「泰亨車」の旧大幕(名古屋市博物館保存)は彼の作.また山本梅逸は月樵から学ぶ.

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