トピック2001

01/3/30

〜犬山市外町に残る古人形「七夕」?〜

 先日お伝えした犬山・外町公民館での水引幕下絵の撮影が終わった時の事です.下絵の箱が収納されているスチール保管庫内の,片隅に古びた人形の頭が二つありました.
 それは,大人の拳よりやや大きい程度で,塗りは剥げてかなり古いもののようです.
 顔の造りや表情も,現在の尾張系の山車に乗る,からくり人形のそれとは,随分違っており,もちろん,現在の外町『梅梢戯』の唐子とは明らかに異なります.
 頭の後ろに付いた真鍮の金具が特徴的で,同じ犬山市の魚屋町「真先」の天女に似たもののようです.
 犬山から帰って,自宅で『犬山祭行粧絵図』が収載されている資料を開くと,...
『犬山祭行粧絵図』
「祭礼・山車・風流」四日市市立博物館発行より転載
この絵図は寛政7年(1795)に描かれた絵図なのですが,外町の車山をよく見ると,やはり現在の「梅梢戯」とは違うようです.
絵図には,車山の三層から左右に張り出した出樋に,真ん中から割れた丸い作り物(星か?)が二つ.そしてその内側に,金色の光背(後光か?)を背負った人形が二体見えます.傍らには『七夕』と書かれています.
 七夕のからくりであれば,絵図の二体はおそらく牽牛と織女なのでしょう.
 この人形が先程外町で見た人形に,よく似ているのです.特徴ある後光らしきものも双方の人形にあります.また風貌もそれとおぼしき男女なので,断定は出来ませんが,これを牽牛・織女と推定するに十分かと思われます.
 七夕はご存じ,年に一度七月七日の七夕に出会う牽牛・織女の物語ですが,この寛政の絵図にある七夕のからくりが,どのようなもので有ったかは知りません.
 絵図から推定する限りでは,車山の外に張り出した左右の星が割れて,中から牽牛・織女が現れ,出会うようなものなのでしょう.

 現在,外町のからくりは「梅梢戯」という梅の梢で倒立する唐子で,これは文政10年(1827)に玉屋庄兵衛によって作られたものです.
 外町は延宝2年(1674)から車山を出し,からくりは「七夕」だったといわれますから,「七夕」が演じられたのは,1674年〜1827年の150年余りの間,今から約170年から330年前の事になります.
 この外町に残されている人形が,当時のものである確証は何一つありませんが,京都系の,それもかなり古いものであることは間違いないようです.
 はたして,この人形が寛政7年の行粧絵図に描かれた「七夕」であるのか,今後専門家による調査により,明らかになることを期待したいと思います. 

全て推論で書いております.ご了承下さい.

後光を開いた状態

後光を閉じた状態
 頭は,いずれも大人の拳くらいの大きさで,牽牛(らしき)人形は首から上,織女(らしき)人形は肩から上が残されていました.首は前後には可動しません(うなずかない).後光は真鍮の板で出来ており,中心を後頭部に固定してあります.また中間部に開けられた穴に通した糸で,等間隔に開くようになります.

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