始めにお断りしておくが、お急ぎの方はした方にある画像からご覧下され.
以下駄文戯言につきご容赦・・・・
若宮八幡社を曳き出された九輛の山車は、末廣町で有松・鳴海の四輛を加え十三輛の大行列となって本町通りを北上する.
この本町通はかつて名古屋城下と宮(熱田)を結ぶメインストリートであり、名だたる商家が軒を並べていた.
東照宮祭や若宮祭の祭車が行装を整え曳かれたのもこの往来である. その本町通を福禄寿車を先車として次から次に山車が曳き通ったのだから、まさに時代絵巻である.
名古屋の碁盤割は東西の通りを「筋」、南北の通りを「通」と云い、その交差する地点は列記して表現した.
広小路と本町通の交差するところは「広小路本町」で、このような呼び方は現在でも交差点名として用いられている.
さて、本町通を曳き通した山車は名古屋城の外堀の手前で左に曲がる.
かつてこの筋は片端筋と云ったが、交差点名は「片端本町」ではなく「本町橋」である.
本町橋は名古屋城の外堀に架かる橋で、本町通はここで終わっている.なぜならこの先には本町御門がそびえ、門をくぐれば名古屋城内の三之丸だからである.
東照宮の山車は御園御門とこの本町御門を通り城内の東照宮へ行き来したのである.
ただ、ご承知の通り丈のある山車だからそのままでは門をくぐる事ができない.
そのため考案されたのが「せり上げ」、つまりカラクリ仕掛けで山車の屋根を昇降させる装置である.
このせり上げに関しては別の機会に譲るとして、横道にそれてしまった話を元に戻さねばならない.
いや横道にそれてしまったのは大山車まつりの行列であって、本来は横道にそれず直進して本町御門に向かえば名古屋城内三之丸なのだが・・・
ただ後方の緑区四輛の山車は直進して(原型をとどめない)本町御門付近を通ったのだが、これも本題ではない.
この片端筋、今は名古屋高速の高架で見苦しくなってしまっているが、それでも道路の片側が堀になっているのが判る.
北側が名古屋城の外堀で、その反対側にのみ武家屋敷が建ち並んでいたので片端筋と云った.
現在は「外堀通」などと無粋な名前が付けられてしまっている.
無粋と云えば、今まで山車が通ってきた本町通の住居表示も腹が立つほど無粋である.
南から列挙すると、「栄」、「錦」、「丸の内」となる.
若宮八幡社は「栄3丁目」となっているが何とも味気ない地名で、しかも国道19号、41号、広小路通に囲まれた地域が全て「栄」なのだ.
やはり末廣(すえひろ)町と呼んだ方が風情があるだろう.
山車が通った本町通りを往時の町名で言い換えると、中須賀町、鉄砲町、玉屋町・・・となる.
高札場があって賑わった伝馬町筋と交わる札の辻の東が名古屋有数の繁華街「錦3丁目」.
いわゆる「錦三(キンサン)」であるが、こればかりは「錦三」で良いのかも知れない
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タクシーに乗って「運転手さん札の辻まで」
まるで駕籠に乗るかのようである・・・・
再び話を戻す.
山車は片端筋を曳き、更に長島町通へと左折すると東照宮である.
城内三之丸に鎮座した東照宮だが明治維新後にこの地に遷座することになったのはご承知の通り.
よって先に記したように東照宮祭で山車が本町御門をくぐって城内に曳き込んだのは維新前までの事なのである.
そして東照宮で八重をきり、からくりを奉納すると、九輛の山車は長島町通から杉ノ町筋を経て長者町通に至る.
那古野神社手前に駐められた先車福禄寿車から最後尾の湯取車は下長者町まで、その列は凡そ3町半(350m)にもなった.
そして、そのまま休息と提灯点灯の準備となった.
この写真はその時の様子である.
しかし、この写真・・・・
よく見るとパーキングメータが稼働中である.
警告ランプが点灯し、駐車してから2分経っていることがわかる.
とある.
ま、これ以上は何も云わないでおこう・・・・