浜松市宮口町区「三階屋台」
三層に分かれたその構造から宮口では「三階屋台」と呼ばれています.
その外観は名古屋やその近郊に多く見られる「名古屋型」に分類される山車そのものであり、近年になってこの山車が名古屋の廣井村で曳かれていた見舞車であることが判明しました.
町区では明治の終わり頃に二俣(現浜松市)からこの三階屋台を購入し、昭和6年(1931)に現在の研精社屋台を建造するまで祭りで曳かれていました.
現在では研精社OB組織である研友会の管理の下、町地区内の曳行が行われています.
その外観は名古屋やその近郊に多く見られる「名古屋型」に分類される山車そのものであり、近年になってこの山車が名古屋の廣井村で曳かれていた見舞車であることが判明しました.
町区では明治の終わり頃に二俣(現浜松市)からこの三階屋台を購入し、昭和6年(1931)に現在の研精社屋台を建造するまで祭りで曳かれていました.
現在では研精社OB組織である研友会の管理の下、町地区内の曳行が行われています.
山車の変遷
地元宮口の伝承によると、明治末に天竜市二俣の車道(くるまどう)から購入されたと伝えられます.さらにその前は竜洋町掛塚の蟹町にあったといわれますが,掛塚ではこの山車についての記録・伝承などなく不明.推測ではありますが、掛塚は当時海路の要衝であり,蟹町は回船問屋も多く存在した町であり,名古屋から船で到着したこの山車がいったんこの掛塚で荷下ろしされることは不自然ではないと考えます.
ルーツ
名古屋の現二福神車
現在この下花車町では、天保7年(1836)に建造されたといわれる二福神車が花車神明社祭で曳かれており、この三階屋台は先代の山車ということになります.
では,なぜ名古屋の山車が遠く遠州にあるのか.下花車町にもこれに関して伝承・文書などが一切なく、それまで先代の山車があったことも知られておらず謎となっています.
どのようにして宮口の山車が二福神車の古車と判明したのかは、後述します.
二福神車とは
二福神車は現在広井神明社の祭礼に曳かれていますが、江戸時代には「那古野天王祭」に参加していた見舞車と呼ばれる山車です.(右写真が現在の名古屋にある二福神車です)ここで,一つの謎があります.文政4年と天保7年では15年の開きしかないのです.なぜ15年で山車を再造する必要があったのか.仮説としては色々考えられますが、ここでは触れないことにします.
山車の不思議
前所有の天竜市車道では、この山車を宮口に売ったあと,大火があったといい、「よそへ譲ると大災難がある」との言い伝えを信じて、ここ宮口では今でも処分する事をせず大切に保管をし守り続けてきたそうです.昭和6年に現在使用されている屋台が新造された後は、祭りの主役の座を譲ることになっても、それは守られ現在に至っています.ではなぜこの宮口の山車が下花車町の二福神車の旧車であることが判明したのか
決め手は残されていた箱の「墨書銘」と「彫刻の一致」でした.このような縁で下花車町の宮口が交流が始まりました.平成9年11月の「宮口まちおこしの会」による「庚申まつり」では名古屋からからくりの操り手・囃子方などを招き、千人近い観衆の前で二福神のからくり人形を披露しました.その後も毎年の宮口まつりには下花車から有志が訪れ、三階屋台の中で名古屋の祭り囃子を演奏ています.
また花車神明社祭や名古屋まつり山車揃えには、宮口の人たちが一緒に二福神車の曳き綱を曳いています.
山車の状態
一部の彫刻は外されていたようで、高欄周りの雲の彫刻など遠州で追加されていますが、大きく手が加わったのはこの部分だけのようです.多くの名古屋の山車が戦災で焼失し、また残る山車も改造されているなかで、この山車は創建当初の姿を良く残した貴重な資料ともいえます.しかし、柱などの構造材や車輪は傷みがあり曳行に不安が伴うことは事実.
山車の未来
平成9年に行われた庚申まつりをはじめ,宮口ではこの山車(三階屋台)の維持保存に努める機運が高まり,今後は「からくり人形」を復活させようとしております.以前は紺の幕でした. 96-09nori氏撮影 |
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前棚横の波の彫刻は創建当時のまま. |
正面の彫刻 上段の雲の彫刻は,当地で後に追加されたもの. |
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新たに修理された輪懸け |
平成9年に行われた庚申まつりでは、名古屋から持参した「下花車町」と書かれた大幕を飾り,からくりの上演. |
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