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犬山祭〜應合子(下本町)

 寛永12年(1635)に馬の塔を出したのが祭礼への初参加で,この時に聖の練り物もあわせて出されたともいわれます.車山になったのは寛政8年(1641)で,当時の幕は木綿地を花色に染めた質素なもので,からくりも当町の新三が作った「蜘舞」という青竹に赤い紙を左巻にしたのに人形を付けて,ぐるぐるまき廻す単純なものだったようです.
 その後,時代とともに幕は羅紗地の猩々緋に,水引は錦となり,からくりにも造作が加えられ,唐子人形が添えられて「唐子」のからくりと呼ばれるようになりました.
 宝暦11年(1761)に車山に枡組が取り付けられ,安永4年(1775)には唐子の大人形が小人形を肩にのせるからくりが名古屋の文吉離三によって制作され,今日の車山とからくりの原型が成立したと考えられます.
 天保7年(1836)には大規模な車山の修復が行われ,その4年後に車山の蔵が建造され,現在も車山蔵として用いられています.近年には昭和54年(1979)に総額660万円をかけて車山が修復され,平成10年(1998)からくり人形が全面修復されています.

 應合子の屋根には梵天がない.

 車山の屋根の天井裏には天保7年に肥田久吾によって書かれた墨書が残されており,それによると,
『祭礼への参加は当下本町と魚屋町が寛永12年(1635)に馬の塔・練り物を出して同年であったのに,両町はその前後を争って神主長太夫に判定を求めた.
 ところが,神主は魚屋町から銭五百文の賄賂を受け取って魚屋町を先だとしたので,当町の者が神主の袖を引きちぎった』

事などが書かれているといいます.神主の不公平な裁定に対する抵抗の姿が13輌の車山のなかで唯一梵天のない車山になったといわれます.

天井裏 細かい文字で墨書されています

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水引幕
旧水引幕
(夜幕)


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