07.09.03更新

司馬温公の甕割り



 本町組のからくり人形は『司馬温公の甕(カメ)割り』である.このからくりは,中国北宋時代の政治家・司馬温公(1019〜1086)の故事に因んだもので、遊んでいた子供が甕(かめ) に落ちたのを,少年時代の司馬温公が甕を割り,中から子供を助ける様子を演じるもの.

  →司馬温公と甕割りに関しては前項と「祭吉の山車祭講座〜彫刻の題材・司馬温公甕割りの図」が参考になる.

 からくりは、遊んでいた小唐子が松の木にぶら下がり、甕の縁に立ち太鼓を叩き、その後甕に落ちる.甕に落ちた小唐子を助けるために、司馬温公役の大唐子は甕に向かい何度も団扇を振りかざす.
そして甕の下部が割れ、そこから小唐子が飛び出してくるといった次第.
大唐子の甕を割る所作が判りにくい事、甕が割れて小唐子が助け出される部分が地上から見えにくいことが折角のストーリーをわかりにくくしているようだ.
また、からくりでは司馬温公が手に持った団扇で甕を割るよう演出されているが、一般的には石を投げて甕を割ったとされている.

倒立や変身からくり、あるいは能の演目から演じることの多い尾張の山車からくりでは珍しく中国史話のストーリー性に飛んだ演目で、しかも高価な大甕よりも人の命のほうが重要だという教訓を説いた題材でもある.

 もっとも、江戸時代にはこの甕割りの説話つまり「破甕救児」はポピュラーであったらしく絵画、彫刻などや日光東照宮陽明門の彫刻にも見ることが出来る.乙川西山の彫刻など知多半島を始め各地の山車彫刻にも馴染みが深い.

明治43年発刊の伊勢門水著「名古屋祭」の廣井八幡祭の項に下記の一文がある.

『享保十八年に章善院殿御上覧と云ふ事で此年毘沙門車は司馬温公の人形と仕替へ...』

毘沙門車は下御園町(現名古屋市中区)が延宝5年(1677)に創建されたといわれる山車で元文3年(1738)に山車を廃した事が同書に記されている.(章善院は尾張七代藩主徳川宗春の法名)
享保18年(1733)に司馬温公の人形(からくり)があったという記述から、本町組のからくりが登場する100年以上前に司馬温公の人形があったということになる.

また同じ「名古屋祭」の見舞車の項に

『此時代であらうかu屋町も司馬温公の人形を乗せた車の町同様の山車を造り(後に人形を靱猿と改正した)』

との記述がある.
『此時代』がいつの頃か、おそらく文政年間(1818〜1829)であろう頃に名古屋城下三之丸天王祭に司馬温公の人形山車が存在したのである.本町組のからくり人形が完成する20〜30年前の事である.
なお、このu屋町(現名古屋市中区)の司馬温公車は上述のように靱猿車となり、明治30年上有知(現美濃市)に譲渡され常盤町「靱車」として現存するが司馬温公のからくりは現存しない.


四日市市「甕割山車」

今のところ資料に見いだせるのは上記の2輌のみであるが、本町組で甕割りのからくりが完成する弘化2年(1845)以前に司馬温公の人形が既に存在したことは確かである.
下御園町、u屋町の人形の作者や所作(甕割りが演じられたか等)は不明だが、本町組のからくりがこれらの影響を受けた可能性は否定できない.

明治中期頃になると四日市の諏訪神社祭礼に上中町(下中町)のからくり山車として司馬温公の甕割りが登場する.
この山車は戦災で焼失したが、平成2年(1990)に八代目玉屋庄兵衛が本町組のからくり人形を模して制作し、商店街連合会が大四日市まつりに登場させている.