本町組のからくり人形
壊れたままで長らく動かすことの出来なかったからくり人形は、昭和49年に七代目玉屋庄兵衛によって修復された.以下本町組3体の人形を個別に見ていきたい.
本町組では2体の唐子のうち大きい方を「大人形」と呼んでいる.これが少年期の司馬温公である.髪型はおかっぱ風で、右手に団扇を持っている.
物語の主人公で、演技の終盤で甕に正対し前後しながら幾度か団扇を振り下ろす仕草をするのが甕を割るシーンである.
いつの頃からか写真右のように肩当てを前後逆に着用していたが、現在のように左の様に着るのが正しいようだ.
司馬温公:天禧3年(1019)〜元祐元年(1086)
正しくは司馬光といい、中国北宋代の儒学者で歴史家.温国公の爵位を贈られたことから、人は彼の徳を慕い司馬温公と呼んだ.『資治通鑑』の編者として著名.
司馬温公は、幼少の頃から神童として知られており、7歳の時に左氏春秋の講議を聞いて、家に帰って聞いてきた内容の講議をしたという.甕割りの説話もこの頃の事だろうか.
通称小人形は、山車上から松の木にぶら下がり、甕の上に立ち太鼓を打ち鳴らす.そして甕の中に落ち、甕が割れて再び現れるといった所作を、複数の差し金を使い分け操作するいわゆる離れからくりである.
地上からは気が付かないが、この人形の後頭部に突起が残されている(写真下左).
また、別に本町組に長く編んだ髪と、短髪の3つの髪(髷か)が保存されている.
この編んだ髪を突起に固定すると、下右写真のように中国で弁髪と呼ばれる髪型のように見える.
尾張一円で見られる唐子人形にしては見慣れない髪型である.
昭和49年に七代目玉屋庄兵衛が復元したおりに、現在のように変えてしまったのだろうか.
同様な突起は碧南市大浜の乱杭渡り唐子人形にも見られ、この人形の修理も同じく七代目玉屋庄兵衛だった.
また、現在では左右に束ねた髪を赤い布で覆っているが、赤い布の下はこぶ状の突起のみである.これも以前は短い髪が付いていたのかもしれない.
小人形の服の胸あたりに四角形の穴があいているが、その用途や理由は不明である.(からくり演技にこの服の穴は関係しない)
前人形は侍姿で、頭に「引き立て烏帽子」をかぶり、袴を穿き腰には刀を差している.
現在は紫の着物の下に更に金襴の着物を重ね着をするが、右写真のように昭和49年の修復当時の写真を見ると、金襴の着物の下に紫の着物を着ている.
この紫と、金襴の着物だが重ね着するのではなく、どちらかを羽織として着用すべきなのか.いずれにしても烏帽子とこの装束の組み合わせは正しくはない.
通常の前人形(=采振り人形)は両手に采を持ち、単純化された動きを少ない糸で簡単に操作できるようになっている.
しかしこの前人形を見ると糸の数が十本と多く、腕の肘関節も可動し、精細な所作が出来る.
また、右手には采を持つが、左手は人差指を伸ばした指差し形状をしている.(左手に扇を持つのは最近の改造である)
頭の面構えなど采振り人形とは思えない部分があり、或いは当初は采振り人形ではなく、他のからくりからの流用だろうか.
作者、制作年代ともに不明である.