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八公車と瀬川治助

 高欄下の支輪彫刻は本町組山車や公通組圓通車同様に檜(ヒノキ)材に漆塗りを施した「波龍」で、4匹の龍で四周を囲んでいる.この彫刻は遠目にはわからないが8つに分割して彫られている.
龍は黒漆、波は茶漆で塗られ龍の火炎は金である.また龍は玉眼で瀬川得意の彫刻の裏側からガラスの眼を填めこんである.
平成18年の八公車解体修理の折、彫刻裏に瀬川治助重定の墨書が確認できた.
本町組や大田荒古組と類似の雲龍だが、やや張り出しが少ないのは、制作年次が古いためだろうか.波の茶漆が山車本体の木肌色と調和している.
高欄狭間は白木で「梅に鶯」や「竹に雀」などの鳥が彫られているが銘はみられない.また、懸魚の「鳳凰」や鬼板・屋根の彫刻群は建造当初からのもので治助重定と推定される.

 八公車の檀箱(前棚彫刻)は欅(ケヤキ)材の素木彫りで題材は「牛若丸と烏天狗(からすてんぐ)」.正面やや右に大天狗の僧正坊、中央やや左には剣を持つ牛若丸とそして烏天狗が7体配置されている.鞍馬山に預けられた牛若丸(源義経)が天狗から兵法、剣術を習うという有名な場面である.
向かって右側面は母である常磐御前が牛若を抱いて追っ手から逃れる場面だという.左側面は刀を構える烏天狗と2名の人物.(題材不明)
彫刻裏の刻銘から瀬川治助重光の作品であることが確認できる.この『牛若丸と烏天狗』は彼の得意とした題材で、阿久比町宮津北組など各地で見ることが出来る.

このように八公車の山車彫刻の一部には重定・重光の墨書や刻銘が見られるが制作年次を裏付ける記録は見あたらなかった.
公通組に「祭礼車八并土蔵再造」と書かれた棟札が残されている.そこには文政六年(1823)の年号と彫物師瀬川治助の名が記されている.
ここに書かれた瀬川治助は年代(文政6年)から父治助重定でなければならない.重光作と明記された前面檀箱の「烏天狗」以外の大半は文政6年の制作と考えてよいだろう.
一方治助重光の「烏天狗」の制作時期ははっきりしないが、横須賀での重光の制作年次である本町組の嘉永2年(1849)、北町組の元治元年(1864)を参考にあげておく.


支輪彫刻の波龍

壇箱正面
<左側面> 太刀の束と包みを担いだ烏天狗に向かい合う2人の男.
<右側面>大風と雷の山道を前傾姿勢で歩く二人.前を歩く女性は牛若の母常磐御前だろうか.大和の山中を平氏に追われて逃げる場面であれば
常磐御前は牛若を抱き、今若、乙若の二人の兄も伴われていたはずだが.
「波龍」裏の墨書銘
『尾州名古屋末廣町彫物師
瀬川治助重定作
「牛若と烏天狗」裏の刻印
『尾州奇雲堂
 瀬川治助作』

「波龍」裏の墨書銘
『瀬川
藤原
重定』
藤原姓を名乗っているが、藤原氏ではない.大工棟梁や
彫師は藤原を名乗る場合が多くいわば職名と考えたほう
がよい.




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