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本町山車と瀬川治助

 高欄下の支輪彫刻は檜(ヒノキ)材に漆塗りを施した「波龍」で、4匹の龍で山車の四周を囲んでいる.8枚に分けて彫られた彫刻は黒漆で仕上げられ龍の火炎は金である.また龍の眼は彫刻の裏側からガラス製の眼を填めこんだ瀬川得意の玉眼である.
彫刻裏には「尾州名古屋 彫物師 瀬川治助 藤原重定」の墨書があり治助重定の作であることがわかる.
制作年は不明だが天保13年(1842)前後だろう.
同様の治助重定作の波龍は大田荒古組や鳴海町丹下、横須賀公通組にも見られるが、当町の波龍が最も山車からの張り出し幅が大きいようだ.

 水引幕のすぐ上に見えるのが四君子の彫刻で、『梅』,『菊』,『竹』,『蘭』が四隅に飾られている.この『竹』彫刻の裏に「天保十三年 壬寅 展秋」と墨書されている.また『蘭』の彫刻裏には「尾州 瀬川重定作」とあることから、天保13年(1842)重定晩年の作品であることがわかる.
横須賀で重定の作品に制作年が明記されているのはこの四君子と別項で述べる飾刀のみである.

 檀箱(前棚彫刻)はケヤキ材に彫られた素木彫刻で、表面に重光の印刻が陽刻され、裏面には『嘉永二年 己 酉 初夏 尾州 瀬川重光作』とあり、嘉永2年(1849)重光の作であることがわかる.
この題材は「玉川」といわれるが、重定、重光の他の玉川作品との類似点は少ない.(詳細は別項で)

 上記のように本町組の山車彫刻は山車全体にわたる重定の作品と檀箱彫刻を手がけた重光の父子によって制作されているのだが、特筆すべきはその制作年代のへだたりが7年と近いことである.
父重定の請け負った本町組の山車彫刻だったが、或いはその完成を待たずに亡くなったとも考えられる.
重定の没年は嘉永3年(1850)だった.この本町組の山車を手がけた後は鳴海中嶋街や豊田志賀町の山車を手がけた程度だが、同時にこの頃から重光の作品が多く見られるようになる.
壇箱彫刻の彫られた嘉永2年は重定の亡くなる1年前の事で、既に重光は治助の名を襲名していたのだった.父の仕事を受け継ぎ重光が完成させたと考えてもよいだろう.重光は以後横須賀では公通組八公車や北町組山車の壇箱を制作している.

波龍の裏「尾州名古屋 彫物師 瀬川治助 藤原重定」

龍の目はガラスの裏から彩色してある
四君子の裏面には『天保十三年 壬寅 展秋』
『尾州 瀬川重定作』等が墨書されている.



壇箱前面

壇箱正面から見て左側面

壇箱右側面

嘉永二年 己 酉 初夏 尾州 瀬川重光作

重光の陽刻(3面にある)
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