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彫物師 瀬川治助

 

横須賀「北町組」高欄下 瀬川治助重定作

瀬川治助重定の彫刻裏墨書銘

瀬川治助重光の彫刻裏刻銘
江戸時代後期の文化・文政年間から明治時代初期にかけて名古屋に瀬川治助という彫刻師がいた.末広町(現在の名古屋市中区栄)に住み尾張・三河を中心に静岡、岐阜、三重にまでその作品が残っている.
この瀬川治助は横須賀の全ての山車彫刻を手がけており、治助の作品を最も多く残しているのもこの横須賀である.
横須賀の山車を語る上で重要な人物である瀬川治助について以下何回かに分けて述べることにする.

 治助と同じ頃に山車彫刻で活躍した彫刻師に尾張藩御用彫刻師の早瀬長兵衛(彫長)がいた.中でも六代目と八代目が著名で犬山や亀崎の山車などにその作品が見られる.知多の山車彫刻を数多く手がけた新美常治郎(彫常)は八代目の弟子である.
また亀崎や乙川の山車に代表される立川和四郎とその一派も半田を中心として活躍していた.
 「尾張藩御用彫刻師」の肩書きを持つ彫長や、「幕末の甚五郎」と賞賛された立川和四郎に比べると、町方彫刻師瀬川治助はいかにも地味である.しかし庶民的な治助の彫刻は尾張や西三河の広い範囲にわたっており、彼の作品もまた高く評価されていたのだ.

 しかし多くの作品を残しているにもかかわらず、瀬川治助についてはよくわかっていない.
彫刻の裏に残された墨書や刻銘などから、瀬川治助は父「瀬川治助重定」とその息子「瀬川治助重光」の二代に渡っており治助は世襲名であったらしい.
 父の治助重定の生年は不明だが、岐阜高専の水野教授によると天明元年(1781)頃の生まれで没年は嘉永3年(1850)だという.主に檜(ヒノキ)材を用い彩色や漆塗り、金箔押された龍・麒麟・獅子等の霊獣を題材にした作品が多い.龍の目にガラスを使用したり髭に金物を使った技法も彼の特徴である.
 重定は重光のように山車彫刻の数は多くはないが、その大半は横須賀・大田・鳴海といった知多半島北部、特に東海市に集中して現存している.他に亀崎、犬山、岡崎等の山車も手がけた.

 重光は文政2年(1819)頃の生まれで没年は明治22年(1888)という.知多半島では横須賀、大田、大府、岡田、大野、阿久比、亀崎、成岩などにその作品が見られ、岐阜県八百津や遠くは遠州横須賀にも彼の作品が残されておりその活動は広範囲にわたっていてその数も多い.
繊細で緻密な彫りが特徴で、横須賀では本町組、北町組、公通組八公車の山車前面壇箱に見られる素木彫刻が彼の作である.これら3輌の山車は既に父重定の彫刻で飾られていた山車を後に改造して壇箱彫刻を加えたと考えられる.父重定の死後を引き継ぎ横須賀の仕事を受けたのだろうか.つまりこれら本町組、北町組、公通組八公車の3輌は親子二代の共作なのである.

東海市大田「里組」壇箱 瀬川治助重定

半田市亀崎・東組「宮本車」壇箱 瀬川治助重光
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