愛宕神社の前から南にまっすぐ下った南端にあるのが海岸山玉林寺、その昔は玉林斎と呼ばれていたが開山は元亀天正の頃と云うから町方成立以前からこの地にある寺だ.
昔このあたりに玉林斎の大きな門があって、これが大門組の語源だという説もある.
整然と碁盤割りされた横須賀町方だが、このあたりだけ道が不自然に屈曲している.城下町に見られる戦略的要素のひとつなのだろうか.それとも町割り以前から存在する寺の為に道を曲げる結果になったのか.いずれにしてもこの玉林寺の先で町方域は終わり藪村に続いている.
この玉林寺だが、古刹でも名刹でもなくどこにでもあるような禅宗の寺である.光友公存命中には御殿滞在時に訪れることはあったというが、それを示す痕跡は残されていない.
天明3年(1783)細井平州がここで講話をし2日間で7,700名もの聴衆が集まったというが古地図を見ても現在の寺域と大きくは変わっていないように思える.
この玉林寺に尾張徳川家の位牌があることが最近判明した.初代義直公から13代慶臧公まで歴代藩主の位牌その数7つ.
同寺住職もその仔細は知らないという.尾張徳川家の菩提寺は名古屋市東区の建中寺で無論位牌も建中寺にあるのだが、聞けば位牌そのものは1個限りというものではなく、所縁の寺や人などに複数存在する事はあるという.
しかし玉林寺が徳川家ゆかりの寺と云うわけではないが、何か格別の事由があったのだろうか.
尾張歴代藩主は、初代義直公をはじめ歴代藩主は家督を相続するとまずは知多巡検を行うのが常だったという.
「古今綱領目録抄」等によると、多くは名古屋から船で横須賀に到着し休息後に陸路で南部に向かうが、天明6年(1786)の九代宗睦の子治行は御殿跡に再建された代官所に3連泊したという.十二代斉荘も横須賀村の庄屋宅に宿泊した記録があるから光友公の死去・御殿廃棄以後歴代藩主と町方との縁が切れたのではないことがわかる.藩主は玉林寺を訪れたのだろうか、横須賀の山車をご覧になった藩主はいたのであろうか. |