尾張の山車まつりへ [どんてんぐるま]−[ゆうしゃぎり]

■出高欄と支輪彫刻

 出高欄とは、山車の高欄が山車本体(柱)より外に出ているものをいう.名古屋城下の東照宮祭の山車などは尾張藩から許可されていなかったというが、現在に残る名古屋型の山車の多くは出高欄である.(明治維新後に改造された山車も多い)
 この名古屋型の出高欄の下部は支輪状に斜め材を配置し、装飾は見られないか、あっても控えめな場合が多い.また、張り出した部分は控えめである.
 もちろん、横須賀型の高欄も出高欄なのだが、その張り出しは大きく、高欄下を量感あふれる彫刻(以後便宜上支輪彫刻と呼ぶ事にする)で飾るところが名古屋型と異なる.

<通常高欄(内高欄)>
西枇杷島「王羲之車」

<名古屋型の出高欄>
出来町「河水車」

<横須賀型の出高欄>
横須賀「北町組」
 
 この横須賀の支輪彫刻を山車別に見ると、建造年代によって差があることがわかる.
本町組と公通組圓通車、八公車は「波に龍」、北町組は「唐獅子」である.いずれも文政年間から天保にかけて、瀬川治助重定による檜彫りの作品である.
 この支輪彫刻だが、建造年が下るほど極端になってきたようで、寛政年間の大門組では4隅に平面的な菊花の彫刻が見られるのみ(注)である.文政2年の圓通車になると彫刻は山車の四周を囲むようになるが、まだ立体感は乏しく金箔押主体である.
 そして、文政末期から天保年間に建造された北町組や本町組になると、彫刻は高欄から一部が突き出すほどになってくる.
 (注)大門組山車は当初支輪部に彫刻はなかったが近年新たに追加している

 では、なぜ出高欄なのだろうか.昔の商家・町屋を思い浮かべていただきたい.道際に一番近いのは屋根・庇の部分で、その他の部分は道路から奥まって建つ.二階建ても同様である.
 一方山車の断面は、一番下の部分は輪懸で山車本体より少し出ている.そして狭まった本体部分が続き、高欄部で再び広くなり、四本柱は狭くヤカタ(屋根)は広い.
家並の凹凸と山車の凸凹が合致するのである.高欄部がいくら山車幅よりはみ出していても問題ない道理である.
 幅狭く丈の高い横須賀型山車を、支輪彫刻の量感で補っているのだろうか.このような家並みを曳かれる横須賀の山車は確かに美しいのだ.
 ただし、一段低い前棚部分の高欄を同じように出高欄にして彫刻で出張らせてしまうと、方向転換などで家の屋根と干渉して身動きのとれない山車となってしまう.それ故前棚部分は平坦になっているのだが、これは別の項で延べる.

本町組山車

北町組山車

公通組圓通車

公通組八公車

大門組山車

支輪に彫刻が無かった頃の大門組山車
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