尾張の山車まつりへ [どんてんぐるま]−[山車の建造時期3]

  祭りと山車の起源,建造時期3


本町組「四君子」彫刻裏

本町組壇箱「玉川」裏
・本町組山車
 彫刻の「四君子」裏に瀬川治助重定の天保13年(1842)の墨書がある.前面壇箱の「玉川」はやや遅れて嘉永2年(1849)に重定の子瀬川治助重光によって彫られている.
彫刻裏に年号の入っているのはこの本町組の山車のみである.

 従来,東海市史などで本町組山車の建造は弘化2年とされてきたが,本町山車の建造は天保13年前後とすべきだろう.
 また現在稽古場で練習用に使用されているからくり人形の甕内部に弘化3年(1845)の墨書がある.
本町山車の人形は当初より司馬温公の甕割だったようである.

 この本町の山車は横須賀で一番最後に造られており、大門組山車や八公山車と50年もの時差がある.
疑問に思うのは,比較的裕福な商家が多かったであろう本町組の山車建造が,一番最後になったことである.先代の山車が存在した事も十分考えられるが,定かではない.

 また,本町組には寛政元年(1789)の銘がある太鼓が保存されている.「本町」,「傳馬町」「上ノ町」の刻みがあるが,山車に使用した太鼓であったのかは不明だが,やや小さい事から他の目的で使用したのかもしれない.
 傳馬町は現在のUFJ銀行から同盟書林付近だが,上ノ町とはどのあたりを言うのだろうか.
「尾陽村々祭礼集」に『傘鉾二十本』とあることから,傘鉾は各町内毎に出していたと思われる.3町合同というからには,ある程度規模の大きい練り物であったのだろうか.
 この寛政元年は大門組山車の建造時期に近い.一説には大門組の山車が本町組の旧車だったともいわれるが,同一地区内での山車譲渡の例はないので,これは根拠のない話であろう. 
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