07.08.25修正

はじめに

 今尾張地方に伝わる山車の原型とされる名古屋東照宮祭の山車が登場するのは元和6年(1620)のこと.当初は大八車を2台組み合わせたものだったという. これより数十年の時を経て東照宮祭名物の9輛の祭車が揃ったのである.

 当時の横須賀はまだ馬走瀬と呼ばれたひなびた漁村であり,現在の町域も出来てはいなかった. 無論山車などは無く,横須賀の町に山車が登場するのは更に100年以上後のことである.
 寛文6年(1666)二代尾張藩主光友の命により横須賀御殿が造営され、その南面に拡がるように碁盤割りの町並みが造られた.横須賀町方の成立である,
 以後350年の間、横須賀の町は御殿廃止,尾張代官所設置,明治維新,太平洋戦争,伊勢湾台風,海浜埋立てと工場誘致.
大きな波にもまれながらも、いつしか5台の山車が現れ,今に伝えられることになる.

 しかし、いつ山車が出来たのか.答えを探しても明確に答えることは出来ない.ごくわずかな断片資料が残るのみである.
また,横須賀のまつりは「どんてん」に代表される山車の曳き廻しが有名で,ともすれば興味の対象もこれらに集まり、山車そのものやからくり人形などに目を向ける人は少ない.
一般的に「名古屋型」に分類される横須賀の山車だが,細部を見渡すと名古屋の山車と大いに異なる事に気が付くが, これが横須賀の山車の魅力に他ならない.
時代背景,地域性,地形などの要素で独自の変化を遂げた結果であろうが,これらが今まで誰にも追求されたことも無かったが、江戸期の文化を今に伝える山車本体やからくり人形にも目を向けねばならない.

 私自身横須賀の祭りを詳しくは知らない.「知ったかぶり」や「聞きかじり」もごちゃ混ぜになるが, 横須賀まつりと山車の魅力を少しでも明らかにできたらと思う.
ご覧いただき更なる情報をお寄せいただければ幸いです.また「間違い」,「異論」がありましたらご指摘下さい.

 文中で「名古屋型の山車」という言葉が出てくるが,これは『名古屋市内及び周辺部にある標準的な名古屋型の山車』という意味である.古くは東照宮祭や若宮祭で曳かれていた山車の形態だが現在は大半が戦災で消失してしまった.現存する名古屋型は愛知県下で40輛余り.
 横須賀の山車も、この名古屋型の山車に分類されるが,各部に相違が見られることから,ここでは比較・対比のために,便宜上あえて「横須賀の山車」, 「横須賀型」と表記している.

山車組の情報を基に,横須賀町史・東海市史等を参考にしたが,これも完全とは云えず,また文中には推測・仮定の域を出ないものが含まれる.