横須賀まつり〜横須賀御殿と町方

09-07-18更新

尾張名所図会より

右は天保年間に出版された「尾張名所図会」に掲載されている横須賀の風景です.海から見た横須賀町方や高横須賀村の様子を小田切春江が描いています.

横須賀は17世紀中頃までは「馬走瀬(馬馳瀬まはせ)の浦」と呼ばれており、寛文6年(1666)尾張二代藩主徳川光友がここに潮湯治の為に別邸(横須賀御殿)を設け、一帯に碁盤割りの町並みを整備したのが横須賀町方の始まりといわれます.

町方成立以前の馬走瀬は、独立した村ではなく横須賀村(現東海市高横須賀町)の枝郷として、年貢などは横須賀村の差配に置かれていたほど、規模の小さい集落だったようです.
このような単なる知多の寒村だった馬走瀬は、別邸造営、別邸廃止、横須賀代官所設置などを経て繁栄することになるのです.

■横須賀御殿

寛文6年(1666)尾張藩二代目藩主徳川光友の別邸として設けられた御殿は、100間×70間(約197m×138m)の敷地に「臨江亭」という数寄屋造りの建屋と、 その北部に150間(約296m)四方の回遊式庭園「御洲浜」からなっていました.

光友は寛文6年から元禄3年まで合計27回の滞在が記録に残されています.参勤交代で江戸在勤の年を除けば毎年のように保養に横須賀を訪れ、長いときは1ヶ月も滞在したようです.
また横須賀への行程は陸路をとらず、名古屋城下堀川の堀留から御座船で御舟入から直接御殿に入ったといいます.これは民百姓(領民)の気を使わせない為だったとか.

この御殿は単なる別邸ではなく、軍事面での対応もなされていたといい、別邸の周囲は堀を巡らし、同時に町割りの工事も行われて、小規模ながら城下町としての基盤割が完成します.
また、その後も町方前面にある海は、新田の開発を許されず、永く海浜に沿っていました.
(現在は開発が進んで工場が建ち並び、海は遠くなってしまいました)
しかし、この軍事基地的要素が仇になったのか、光友の死後横須賀御殿は取り壊されてしまいましたが、天明3年に横須賀代官所設置とともに一部が再興され、 藩主が知多半島の巡検の際の休息に使用されました.
現在では遺構も残されていない横須賀御殿ですが、御洲浜、御亭、枡形、土居内、などの地名が当時を偲ばせています.例えば枡形1丁目は現在の愛宕神社西の東海市市民体育館あたりです.

■横須賀町方

横須賀御殿の造営を機に小規模ながら碁盤割りの町割りが形成されました.小さな漁村だった馬走瀬は変貌を遂げ、延宝3年(1675)に横須賀町方と改められます.

光友死去の後、御殿は取り壊されましたが、その地には天明3年(1783)に知多西浦73ヶ村を管轄とする横須賀代官所が設けられました.
横須賀町方は小さな漁村から知多西海岸の行政の中心として、また近隣の商業・物流拠点となって繁栄することとなりました.

横須賀が「町方」と呼ばれたのは,前述のように光友公の別邸があったからで、藩命により町域が成立した事によるものです. これは、後に別邸が廃せられかわりに横須賀代官所が置かれるようになっても変わりませんでした.
この町方域は、現在の愛宕神社から南側の碁盤割りになった一帯で、縦横に区分された町割りは今も大きくは変わっていません.
5輛の山車はこの旧町方を5分した山車組によって所有伝承されてきました.

※町方とは、それ以前の農民混住の都市から農民を除外した行政区画のことで、町方に対し農村の村方、漁村の浦方があります.

■高横須賀

横須賀が馬走瀬と呼ばれていた頃、その規模は小さく横須賀村に属していました.寛文6年(1666)に光友によって横須賀御殿が造られ町方が成立すると、横須賀村から分離独立し、横須賀村は高横須賀村と名を変えることになりました.(現在の東海市高横須賀町)
この村名の変更は馬走瀬が文字面が悪いので横須賀と改め、本郷の横須賀村は高横須賀村に変更すべき旨が藩より申し渡されたとか.

この本郷であった高横須賀の氏神(諏訪神社)の祭りにも4輛の山車がありました.この諏訪神社の祭礼は旧暦8月15日に行われ、山車に飾る造り物が『高の造り物』として評判だったそうです.
この高横須賀の山車は、明治41年(1908)に祭礼に金が掛かりすぎるとの意見で廃止されてしまいます. 小型だった今川組の山車は小根(現知多市八幡町)に譲渡されましたが、いつしか廃止され現在はからくり人形のみ保存されています.
白木で彫刻が自慢だった南脇組の山車は常滑町北条地区(現常滑市)に譲渡されました. 西脇・東脇の山車は屋形(屋根)が障子紙張りやよしず張りであった為に、解体後廃材扱いで競売にかけられてしまったとのこと.(横須賀町史)
山車の形態は残された写真などから東海市大田町の山車のように知多型外輪だったようです.

また、加木屋村(現東海市加木屋町)の熊野神社の祭礼にも、慶応初年(1865)に建造された北組「常磐車」、中組「慶応車」、南組「本若車」の3輛の山車がありました.
しかし、明治3年(1870)白拍子の坂を曳行中に山車が逆行し見物人に多数の怪我人が出るという事故が起きてしまい、大地主が私物化していた(横須賀町史より)事もありわずか5年で3輛ともに解体されてしまいました.山車の形態は不明です.


常滑市北条「神明車」

高横須賀の4輛、そして加木屋村の3輛、そして現存する大田の山車4輛と横須賀の山車5輛を合わせると、幕末から明治にかけて合計16輛の山車が東海市に存在していたことになります.

北条の山車

北条では明治42年に山車と山車庫を250円で南脇組から購入したそうです.この旧南脇組の山車は、その後部材や彫刻などを徐々に改修・新調し、現在の「神明車」となりました.現在では高横須賀当時の旧車の部品はまったく使われていないとのことですが、外輪式の山車形式が旧車の面影を残しており、横須賀系の山車囃子と共に現在も常滑祭に「神明車」として曳き出されています.

参考資料: 知多郡史・横須賀町史
横須賀御殿学術調査研究報告書(東海市教育委員会)