横須賀まつり〜山車の特徴

09-07-18更新

公通組の棟札.八公組(左)と圓通組(右)

■建造時期

横須賀の山車に関する資料はほとんど残されていません.
山車本体に記録が残るのは、北町組山車の框にある文政9年(1826)の墨書と、本町組の山車彫刻裏に書かれた天保13年(1842)など.他に公通組や北町組に山車蔵の棟札や板書がわずかに残るばかりです.

その少ない資料から判る範囲で建造時期を推し量ると、大門組(寛政6年=1794)、公通組圓通車(文政2年=1819)、公通組八公車(文政6年=1823)、北町組(文政9年=1826)、 本町組(天保13年=1842)となります.
この文政から天保時代にかけての江戸時代末期は、名古屋でも広井村等から天王見舞車が多く作られ、名古屋型山車の円熟期ともいえる時期でした.

また、圓通組(公通組圓通車)の山車蔵棟札に「奉再建祭禮車」とあり、八公組(公通組八公車)の棟札にも「祭礼車并土蔵再造」と記されており、先代の山車が存在したことをうかがわせます.横須賀近隣の大里(東海市大田町)や岡田(知多市)・寺本(知多市)などの山車記録から推定すると、横須賀の山車祭りの起源はさらに 1700年代まで遡る可能性もあります.

■山車の形式


知多型(半田市乙川「源氏車」)と名古屋型(名古屋市中区「福禄寿車」)

山車の形態は半田市をはじめ知多半島で広く分布する知多型ではなく、いわゆる名古屋型と呼ばれる形式です.
名古屋型の山車は、知多半島では常滑市大野・小倉・西ノ口で見られ、これら知多半島西海岸は海運等で名古屋との結びつきが強く、文化面でも名古屋と強い影響があったことが 推測されます.

横須賀の山車は、一般的な名古屋型の山車とは細部が異なり、横須賀独自に発展したと思われる特徴が多く見受けられます.名古屋型の中でも横須賀亜種と分類すべきかも知れません.

山車彫刻は5台すべてに瀬川治助重定(父)・瀬川治助重光(子)父子による作品で占められ、瀬川治助が山車彫刻を手がけるきっかけとなったのが、この横須賀の山車からだとも考えられます.

■山車の特徴

山車彫刻


公通組「八公車」前棚彫刻 瀬川治助重光作

半田市亀崎東組「宮本車」壇箱彫刻 瀬川治助重光作

見栄えのする山車の前棚正面と側面3面の山車幅いっぱいに彫られた白木の彫り物は、いわば知多型の壇箱に相当するもので、名古屋型の山車には見られない装飾です.
「玉川」「烏天狗」など瀬川治助得意の題材で細密に彫られた作品で飾られています.これらの彫刻作者は瀬川重定(大門組)、瀬川重光(本町組、北町組、公通組八公車)です.
その多くは山車本体の建造時期より後に彫られているため、途中で追加又は改造を受けた可能性があります.
白木による山車彫刻は文政10年(1828)の亀崎中切組「力神車」がこの地方の先駆けで、立川和四郎一派により、その後知多半島全域の知多型山車に流行したものです.
本町組の白木壇箱は嘉永2年(1849)に治助重光によって彫られています.彼の代表作とされる亀崎東組「宮本車」の壇箱を手がけたのは、その16年後の元治2年(1964)の事です.

出高欄

高欄が山車の幅より大きくはみ出しています.この形状を出高欄といいます.この高欄下部を瀬川重定作の彫刻で飾っています.(本町組、圓通車、八公車が龍、北町組が唐獅子)
この出高欄は華美になるということで名古屋城下の山車では許されていませんでした.郡部の横須賀だから出来得た形状なのでしょう.

空木立ち


前が空いた名古屋の山車と対比させる

多くの名古屋型は下層部の前後が格子で解放されています.横須賀の山車は前面が閉じており, 大幕(赤幕)で下部まで覆われています.
前面の中央には柱が妻台輪から立ちあがっており,改造の痕跡は見られません.(一般的な名古屋型ではこの部分は後部同様に格子によって跳ね上げられています.)
創建当初よりこの形態だったかは不明ですが、 江戸期の名古屋の東照宮祭礼絵図などを見ますと、前面は幕で覆われています.
昔は曳き回し時には格子戸を閉め、幕を下ろすのが原則だったとも考えられますが、横須賀の山車は、格子戸の代わりに嵌め殺しの格子にして構造を省略してあるのでしょうか.

屋根

屋形(上山)は、高欄を覆えるほど大きく、そのため四本柱を斗形で支持する構造になっています.現在の名古屋型には見られない蛙股(かえるまた)彫刻があります.
屋根上には鳥衾(とりぶすま:鬼板の上部に突き出た棒状の材)があります.この鳥衾も現在の名古屋型山車では見かけません.

その他

からくり人形はすべての山車に乗せられていますが、大将人形が存在しません.