横須賀まつり〜愛宕神社

09-07-18更新

東海市横須賀町一帯の氏神で、植松地区を除く旧横須賀町方をその範囲としています.

愛宕神社の始まりとして次のような伝承があります.
天正から文禄の頃(1573〜1596)、馬走瀬(まはせ=横須賀の旧称)の坂徳兵衛の下女がある日突然神がかりして口走ったという.「私は京都・愛宕の神である.今よりこの地の守護神となるので、迎え祀るように」
徳兵衛の舅である坂三郎太夫正家は、京都に徳兵衛を遣わした.そして愛宕神社に参拝させ神像を奉戴、小さな社を築き産土神としたのが愛宕神社の始まりという.(東海市の昔話より)

一説には慶安2年(1649)勧請(永代記-横須賀町史)ともいわれますが、この社は現在の大門組地内の玉林寺付近に建てられていました.


(愛宕神社)元宮

坂正家から6代目の子孫の横須賀町方商人坂正盈(1707-1775)は、 寛保2年(1742)に愛宕神社が玉林斎に隣接しており、葬列が神前を行き交う事は恐れ多いので、扇島の松林へ移座したいと次のように寺社奉行へ願い出ています.
『愛宕神前毎々死人通り穢敷殊ニ火元用心悪敷』
その結果、翌寛保3年(1743)現在地に移座が行われましたが、これが現在の愛宕神社で、旧愛宕神社の地は元宮として祠が祀られることになりました.

祭神は迦倶土神(天之迦倶土命:あめのかぐつちのみこと)で火伏せの神様です.境内には天満社、秋葉社、恵比須社、金比羅社、山神社、国龍大神、英霊社、津島社の境内社が祀られています.

境内の南東隅にある一際大きい常夜灯は文化4年(1809)建立のもので、かつては本町通の北端に本町組の山車蔵と一緒にあったといいます. 明治の末頃までは本町の各戸が交代で毎夜点灯に行っていたそうですが、いつの頃からか現在地に移転されています.


本町組常夜灯西面

本町組常夜灯東面

■愛宕神社の祭りについて

愛宕神社の祭礼に、いつから山車が曳き出されるようになったのか、残念ながらその記録は残されていません.

宝暦5年(1755)に尾張地方の祭礼を調査した記録「尾陽村々祭礼集」には
『愛宕祭礼鳥居先より二町間傘鉾二十本木綿幟二十本提灯四十右三品置、 祭日八月二十四日、右一社同村祠官坂近江守扣』
と記されています.
文政年間?に書かれた高力猿猴庵の「尾張年中行事絵抄」には、次の1行のみ記されています.
『(八月)廿四日、知多郡横須賀村、愛宕祭。傘鉾、ねりもの渡る。』

いずれの資料も祭礼は旧暦8月24日に行われ、傘鉾の出る祭りだったことが記されていますが、山車に関する記述はありません..
また、「張州雑志」(内藤東甫)や尾張名所図会(天保12年・岡田啓他)には愛宕神社の祭礼は触れられていません.
この「尾張年中行事絵抄」が出版された頃には、横須賀の祭りに山車が登場していた可能性がありますが、必ずしも記録に残っていない事=山車祭りが行われていない、とは限りません.
愛宕神社の祭礼が広く知られる祭りの規模でなかったのは確かでしょう.


有松(名古屋市緑区)の傘鉾と美濃市の傘鉾(写真右)

では傘鉾祭りの起源ですが、これもわかっておりません.前述のように「尾陽村々祭礼集」と「尾張年中行事絵抄」に8月24日に傘鉾20本と、ねりものの祭りが行われていたことが記されるのみです.
傘鉾は少なくとも宝暦5年(1755)には存在していたことは判りますが、俗にいう『横須賀祭りの起源は光友公の旅情を慰めるため』まで遡るのには無理があるように思われます.

傘鉾は大高の氷上姉子神社(名古屋市緑区)などの祭礼で現在も行われており、全国的に分布する飾り物です.
本町組には傘鉾あるいは練り物の馬の塔(おまんと)の残骸や飾り物の部品が残されています.

本町組に練り物に使用されたと思われる飾り刀が保存されています.
弘化3年(1846)の銘が入った刀は瀬川治助重定の作.
同じく本町組に保存されている太鼓の胴には寛政元年(1789)の銘があります.
現在の山車が出来る50年前の太鼓が、先代の山車に使われていたのか、
練り物で使われたのかは不明です.