■山車の特徴
本町組の空木立
横須賀の山車は基本的に5輛すべて同じ形式です.江戸時代に名古屋城下で曳かれていた「名古屋型」と呼ばれる山車に分類されますが、細部には横須賀の町並みに合わせた違いがあり、独自の装飾が施されています.
山車はその曳かれる町の環境に調和した大きさが求められます.現在でも国道から一歩入った旧町方域は道幅も狭く、そのため標準的な名古屋型に比べて山車幅が狭くなっています.その一方で、山車の高さは名古屋型では最大の高さ(6.5m〜6.9m)があります.
名古屋から山車を買ったとの伝承もあるようですが、山車建造に横須賀及びその周辺地区の大工の関与もあり、現在の山車は当初から横須賀独自の仕様で建造されたと思われます.
→山車の特徴の詳細
→山車飾りなど
■町方と横須賀御殿
横須賀は江戸時代初期に尾張藩徳川家の別邸(横須賀御殿)が建てられ、小規模ながら碁盤割りの町並みが整備され横須賀町方と呼ばれていました.
二代目藩主徳川光友の頃、寛文6年(1666)に完成したこの御殿は、その50年後に取り壊されます.その御殿のあとには知多西浦73ヶ村(主に知多半島西海岸)を管轄とする横須賀代官所が設置され、知多西海岸の行政の中心として、また近隣の商業・物流拠点となって繁栄することになります.
→町方と横須賀御殿の詳細
■横須賀まつりの見どころ
北町組「大どんてん」
まつりは土曜日の試楽に各山車は自町内を曳き廻し、午後から順次市道元浜線に登場します.
翌日曜日の本楽は早朝から愛宕神社に山車は勢揃いし、神事の終了をまって神社前でからくりを奉納、どんてん披露の後に町内巡行を開始します.
・どんてん
どんてんとは、山車を方向転換させるときに楫取り(楫方)が山車の前方をかつぎあげ、回転させることを言います.
愛知銀行角のどんてん場(本楽の昼と夜)と、神社近くの同盟書林角の大どんてん(試楽と本楽の夕方)では、山車が威勢良く何回転もします.
この同盟書林角のどんてんは特に『大どんてん』と呼ばれ、からくり人形の奉納も行われ、祭一番の見せ場となっています.
→どんてんの詳細
・楫取と新楫
大門組楫取
山車の運行にあたる楫取(楫方)は前楫4名、後楫4名の合計8名です.候補者の中から選ばれた楫取は腰に化粧廻しをつけ、横須賀まつりの花形ともいえる役割です.
なかでも山車進行方向右側の楫棒の外に付く楫取をしけのはなと呼び一番の名誉とされています.
また、初めて楫取りになる若者を新楫と呼び、彼らには祝儀の手拭い(タオル)を送るのが慣わしです.
→祭りの花形楫取と新楫の詳細
・祭り囃子
大門組楽人
横須賀まつりの山車囃子は能楽系の囃子で、名古屋から伝えられたとされます. 山車の動きや曳かれる場所によって演奏される曲が決まっており、数多くの曲が保存伝承されています.
横須賀の囃子で代表的なのは「緩車切(悠車切)」で、名古屋を始め尾張各地で演奏されている「車切」を緩やかにしたものです.
また、どんてんのときには、静かな「早笛」から始まり、山車を担ぎ上げてからの急テンポな「車切(早車切)」、
そしてどんてんが終わり山車が動き出すと「早神楽」といったように、緩急をつけどんてんを鼓舞するような選曲がなされています.
横須賀では、この囃子を演奏する囃子方を楽人(がくにん)と言います.
→囃子の詳細
・夜祭り
提灯を灯し夜の町並みを曳行する宵祭りは、二日目の本楽祭に行われます.
試楽日では、夕刻に山車は蔵に格納され、その後の祭礼行事はありません.本楽日の夜に宵祭りが行われるのは、かつて祭礼日が1日だけだった名残でしょう.
本楽祭の夕刻に、愛宕神社前で提灯を飾られた山車は、本町通りでどんてんを行い、愛知銀行角で曳き別れとなります.狭い道路を通るためここで提灯の数を間引かれて、各山車は町内に戻っていきます.
・山車蔵
情緒ある瓦葺き土蔵造りだった山車蔵は、耐震設計のコンクリート造りに替わり、隣接する若屋(稽古場)も冷暖房完備となっています.
→山車蔵の詳細
■大正、昭和そして平成へ
幾枚かの古い集合写真が残されています.
■スクラップブック
祭りの様子や旧ページの画像など東海市文化財調査委員報告書・東海市の祭ばやし
瀬川治助木彫の世界・他