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尾張知多地方の山車祭−常滑祭の特殊性について
日本各地には様々な祭りがある。中でも華やかな物に鉾、山、屋台、壇尻等と呼ばれる、いわゆる山車が出される祭がある。こうした祭を山車祭りと位置づけると、全国的に見て山車祭りが多く分布している地域に愛知県の尾張地方がある。山車の呼称は実に様々であるが、地方独特な呼称に「おまつり」がある。「おまつりを曳く」「おまつりが飾ってある」等と使うが、これは山車は祭につきもの、当地方に於ける山車の多さから来ていると思われる. 尾張、中でも知多地方は名古屋の山車祭文化の影響を受けながらも知多型という独自の山車文化を生んだ地域である。 知多地方の多くの山車祭は神社単位つまり各神社の氏子地域単位で行われるが、常滑市常滑地区の常滑祭は二つの神社の各氏子が揃って行うという特殊性を持っている.常滑祭は毎年四月の第二土・日曜に行われ知多地方の中でも最多の六輌の山車が揃う勇壮な祭である。 神社と氏子区域の関係は神明社が保示・市場・山方・瀬木・北条の五字、常石神社が奥条の一字となっており、例祭式典としては各神社別々で行われ、常石神社の氏子が神明社の例祭式典に参加することはない。しかし、山車の曳行に際しては六字揃って行われる。こうした事は常滑祭の起源に由来する。 常滑祭は明治38年、日露戦争勝利に常滑町が行った凱旋祭に六字より山車が参加した事に始まる。(瀬木市場は以前から所有の山車、他字は花車と呼ばれる簡素な山車を造って参加)。これ以降、毎年3月10日(陸軍記念日)に白山招魂社の招魂祭として山車祭を行う。明治末期には祭礼日が4月3日となり、招魂祭に合わせて神明社。常石神社の例祭を行うようになる。大正末期には祭礼日が二日間となり、4月14日を神明・常石二神社の例祭、翌15日を招魂祭とした。その後、大東亜戦争開戦に伴い、昭和16年を最後に祭礼(山車の曳行は中止となる)戦争終結後の昭和21年、祭礼が再開されるが、4月14日を神明社、翌15日を常石神社の例祭とし、招魂祭は10月23日とした。昭和50年には祭礼日を4月第二土・日曜とし現在に至っている。 二つの神社の氏子が揃って山車祭りを行うという常滑祭の特殊性は、祭の起源にあると先にも述べた。これには当地区の行政区画の変遷が大きな係わりを持っている。常滑地区は江戸時代、北条村、瀬木村、常滑村の三ヶ村からなっていた。北条村、瀬木村は、それぞれ現在の北条字、瀬木字である。そして常滑村の中にはそれぞれ独自の庄屋を持つ市場村、奥条村(現奥条字)が存在し、更に市場村は市場浦方(現市場字)市場山方(現山方字)保示浦方(現保示字)に分けられていた。その後、明治17年北条村、瀬木村、常滑村が合併し常滑村となり、現在の六字が成立した。明治27年には町制が施行され常滑町となるが、その後の明治38年に行われた凱旋祭を常滑町主催という町単位という形で行ったため氏子区域の区別がなくなり六字揃って行う祭りとなった。 少し常滑祭の山車の意義について述べたい。山車の語義は京都祇園祭に見られるように、山車の屋根に突き出た鉾、つまり「出し」から来ており、神が天から一時的に下りてくるための神籬の意味を持っているという折口信夫の説が定説である。尾張地方に存在する山車はそういった意味を持たない。この地方の山車は御輿の警固の意味を持つといわれる。御輿渡御の際、行列の一部として御輿を護り固めるのである。しかし、常滑祭の山車にはこうした意味合いはない。それは当初の凱旋祭が戦勝を祝うための物で、御大典や御遷宮等で見られた、花電車や花バスの類であったからと思われる。 常滑祭の歴史は明治38年の凱旋祭に始まり、常滑町(行政)主導の白山招魂社の招魂祭から常滑地区(民間)主導の氏神神社の例祭への移行の歴史であった。わずか90年の間に大きな変遷を経てきたと言えよう。戦後、招魂祭の分離によって現在の常滑祭には、英霊に対する慰霊顕彰の意味は全くと言っていいほどなくなってしまったが、六輌の山車が揃って地区内を曳行する姿は日露戦争の勝利に日本中が沸き返った当時を偲ばせている。 神道学会会報第17号(平成7年3月1日発行)より片岡光氏(祭吉氏)のご厚意により転載しました. (縦書きの原文を横書きに改めたため,年月日等一部の漢数字を算用数字に変えさせていただきました) |
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