12-02-28更新

常滑市大野祭り〜高須賀町「唐子車」

高須賀町の氏神は小倉神社で、知多半島有数の古さを誇る「唐子車」を保有しています.唐子車の名はからくりの「唐子遊び」にちなみます.

当町に保存される『永代記録』によれば「寛保元年祭礼初めて出来」とあり、寛保元年(1741)に創建されたことがわかります.これは現存する山車では知多半島でも有数の古さを誇るものです.

宝暦5年(1755)に尾張地方の祭礼を調査した記録「尾陽村々祭礼集」にある『牟山権現祭礼八月晦日、山車一輛高須賀町より右社迄引渡、神楽舞神子計、糸からくり幕水引共木綿人形衣装・・・』 はこの山車をさしているのでしょう.

※牟山権現は文政2年(1819)に神社名を小倉神社に変更.

唐子車は天明4年(1784)に高欄塗替えなどの修理が行われ、さらに安政5年(1858)の改造では、瀬川治助重光による白木彫刻が支輪部に追加されました.
からくり人形は天明5年(1785)蔦屋藤吉の作.

からくり人形

 

水引幕
「鳩群飛」

森高雅下絵

※森高雅(1791〜1864)

名古屋鉄砲町生まれで中村竹洞門下.大和絵や浮世絵を多く描いた.尾張の山車祭礼とも関わりが多く、尾張藩の命を受け名古屋東照宮の祭礼行列を描いた『東照宮祭礼絵図』や、天保12年(1842)に発行された『尾張名所図会』の挿図を小田切春江とともに描いている.

また、水引幕の下絵も多く描いており、名古屋市下花車町「二福神車」の水引幕『金波怒濤』や、知多半島では板山大湯組「花王車」、上野間四嶋組の水引幕などがある.

支輪彫刻「老松」

瀬川治助重光
安政5年(1858)

唐子車の前部は格子状の引き戸がはめられています.
これは名古屋市内をはじめ大半の名古屋型では見られなくなったものです.

※建造年の古い名古屋型の前後や知多型の後部出入口の框(かまち)と梁(はり)には現在でも溝が残り、引き戸がはめられるようになっています.

大将人形台座
「波と岩」

瀬川治助重光
安政5年(1858)

雨覆

山車蔵から発見した雨覆は、安政5年(1858)と墨書された木箱に保管されており、油障子の貼り替えを行えば使用可能の状態でした.
平成18年(2006)に町内の人々によって修復されました.

雨覆とは主に名古屋型の山車に使用する雨具で、いわば山車の傘のようなものでした.
昔は多くの山車に備わっていたようで、今も山車蔵の奥に保管されているところもありますが、現在ではビニールのカッパを使用するためにその姿を見ることはありません.
当大野祭りでは十王町の梅栄車も同様な手法で修復されています.

伊勢門水の「名古屋祭」によると、
『名古屋祭りの雨天順延と云う事は古来よりの習慣で別に不思議とも思わぬが(略)それで當日雨天なれば無論山車は曳出さぬが若し途中の場合には雨が降らうが鎗が降らうが曳渡して仕まう(略)夫れで名古屋祭は日本一の晴天といへども雨具は必ず用意して車毎に雨具荷ひが四五名も付随している(略)雨具には雨障子と云って油紙で張った障子で屋根を覆ひ、其他勾欄下の部分は合羽をもって包む、』と書かれています.