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美浜町・小野浦

02.06.31追加
 知多半島の西南部に位置する小野浦は,文化・文政の頃より千石船による廻船業で栄えたところで、江戸時代遠州灘で難破しアメリカに漂着した音吉の出身地でもあります.
この小野浦の八幡神社の秋祭りに,かつて2台の山車が曳かれていました.

小野浦の祭り
 明治の初め頃までは,村の中央を流れる川を境に東祭礼組と西祭礼組の2台の山車が曳かれていました.明治の中頃になると、日露戦争で若者が少なくなり、東組は打囃子と千石船型の船山車を、西組は子供行列と打囃子を行うこととなりました.支那事変の頃になるとさらに若者が減り山車の曳き廻しも困窮し打囃子だけになって山車祭りは行われなくなりました.
 現在は旧暦8月15日に神事のみ行われています.
本ページの小野浦の船山車画像は,3月に行われる厄災行事に飾られた時に撮影しました.

小野浦の山車
 前述のように山車は東組,西組の2台ありました.
現存する山車は,長さ7,4メートル、高さ4メートルあり東組が元治2年(1865)横須賀陣屋の代官の許可を得て建造したもので,内海東端の船大工吉兵衛によるものと伝えられます.(野間町史では慶応2年(1866)とある)
黒船車とも呼ばれたこの山車は,千石船の形をしており,船体部を黒塗りにし,唐破風屋根を載せたものです.
鳴海表方祭・相原町「唐子車」
また,野間町史には,天明の頃(1781-1789)名古屋の末広町所有の東照宮祭の祭車だった黒船車(後述)を模して,車輪は皇大神宮(伊勢内宮)の御木曳の車輪を貰い受けて船山車を造ったとあります.この天明の山車の所在は明らかではありません.
 一方,西組の山車についての記録は残されていませんが,明治初期によそへ売却されたと伝えられます.
この旧西組の山車の所在は,鳴海町相原(名古屋市緑区鳴海町)の「唐子車」であることが判明しており,現在でも鳴海八幡宮例祭(鳴海表方祭)に曳かれています.相原では明治11年(1878)に小野浦から買い入れたと伝えられています.
 この山車は,相原で買入れ後,素木の知多型だったものを,上山を新たに造り,内輪から外輪に改造,また前棚を新たに設けるなど,名古屋型の山車に改造されています.
このため,外観は大きく変化していますが,中野(立川)甚右衛門の彫刻など小野浦時代の面影をしのぶ遺構も多くみる事ができます.
末広町・黒船車
 名古屋若宮祭の祭車で,初代は延宝2年(1674)に建造されています.船体一面に黒漆が塗られていたので黒船車と呼ばれていました.この黒船車は明和9年(1772)に野間の船大工三太夫により新たに再造されたため,旧車は上有知(現美濃市)に売却され,現在でも美濃祭りに曳かれています.
 一方,明和9年の新黒船車は,名物祭車として長らく若宮祭で曳かれていましたが,惜しくも戦災で消失しております.

船は船首を低く,船尾が高く造られ,車輪も後部の直径が大きめになっているため,やや前傾します.
鶴の懸魚
後ろに見える赤の部分は油障子の屋根.
中央の唐破風部.建造当時は屋根がなく,この部分はのちの改造によるもの.
堂山の側面
周囲は高欄が巡らされているが,これも後の改造
舳先には銅板の昇龍
後部に『八幡丸』の額.
宝づくしの浅彫り


山車蔵の天井には船山車の絵図面が描かれています.

参考資料:美浜町史,野間町史,他

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