東海の山車祭り

第7章 山車研究のこれから(2/4)

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 美術の分野で山車が取り上げられない理由としては、次のようなものが考えられる。

 第一に、従来、江戸後期の工芸品は低く評価されて来た。このころの工芸技術は過去の技術の応用で新たな進展は少なく、細かな職人芸や奇異なデザインがもてはやされた。それゆえ、この時代の工芸品は芸術性の低いものと見なされて来たのである。江戸後期工芸のかたまりともいえる山車もまったく美術品として注目されて来なかった。(ただし、最近の江戸文化ブームの中で江戸後期工芸の意匠的な面白さが見直されつつある)

 第二に、従来の美術史の区分は染織、漆工、金工、絵画、そして建築彫刻(これは建築学の研究分野なのだが)というように分けられており、そのため各種工芸の集合体である山車を研究する分野がなかった。そして、ごくまれに山車の美術的な側面が取り上げられる場合でも、染織、漆工、金工、彫刻などが個別に解説されるのみで、山車そのものが美術品として扱われることはなかった。

 このように、従来の民俗学でも美術史学でもまともに扱われて来なかった。しかし、こうした位置づけは山車にとって不当なことである。
 まず注目しなければならないのは、江戸時代、文化の二大中心であった江戸と京都に山車があったという点である。現在の東京にはほとんど山車は残っていないが、徳川時代の江戸では山王祭に40数輌、神田祭に30数輌の山車が曳かれ(この二つを天下祭と呼んだ)、この他、氷川神社(山車が現存)など江戸各地に山車があった(山王祭、神田祭は当時、京都祇園祭と並ぶ日本最大の山車祭だった)。

 江戸の山車が巨額の費用をかけて、当時の工芸技術の粋を集めたものであり、熱狂的な町人たちによって支えられて来たことは想像に難くない。現在、山車のある町と同様、年に1度の祭りのために1年をすごしているような人がたくさんいて、山車は当時の町の最大の関心事であったと思われる。おそらく当時、江戸の祭のイメージは山車であり、山車は江戸文化の象徴だった。もちろん、これは京都、名古屋でも同じである。町人文化の中心、江戸、京都、名古屋の町人たちが熱狂し、私財をつぎ込み、当時の最高の工芸を集めた。山車は江戸時代の町人文化を考える上で欠くことのできないアイテムなのである。

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