東海の山車祭り

第3章 山車祭りの歴史(4/4)

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<亀崎潮干祭>

26 亀崎潮干祭
・東組
文政5年(1822)頃改造か
現車は元治2年(1865)新造
・中切組
文政9年(1826)新造
・石橋組
文化13年(1816)新造
現車は明治24年(1891)新造
・田中組
天保8年(1837)新造
・西組
弘化3年(1846)頃新造

 愛知県の例では、18世紀以前から続く亀崎潮干祭の5輌の山車のうち、4輌が文化文政から弘化期(1804〜48)の間に新造され、残る1輌も建造年代は不明だが文政年間に彫刻が作られており、新造または大改造されたらしい(うち2輌は幕末および明治に再び新車に変えられた)。各組の山車新造年代は次の通りである。

 これらの中には、東組の先代の山車(現在は碧南市鶴ヶ崎)、中切組力神車、西組花王車など、東海地方でも屈指の名車が含まれている。

 このように、祇園祭、高山祭、亀崎潮干祭では、いずれも文化、文政、天保の頃に、現在の山車の形が完成された。実際には、この後の幕末期、明治時代にも様々な改造が行われているが、これは文化文政時代に完成されたスタイルに基づいてさらに装飾が加えられたにすぎない。これらの例と同様に、多くの山車祭りが、文化文政時代から幕末期に大改造、新造を重ねて現在の山車を作り上げた。

 なお、この時代に中京地方で特筆すべき事項として、諏訪の宮大工・立川流の影響があげられる。立川流は各地で社殿、お堂、塔などを建設しているが、山車に関しては主に建築彫刻の分野で活躍した。
27 亀崎・中切組「力神車」彫刻
28 高山山王祭・上二之町「五台山」彫刻
29 桑名石取祭・西船馬町祭車彫刻
 知多半島では文政10年(1827)に立川和四郎富昌(二代目立川和四郎)が亀崎潮干祭の力神車の彫刻(写真27)を造ったのをきっかけに、以後数10年の間にほとんどの山車が白木造りに変わった。これらの山車・彫刻の多くは立川流及びその影響を受けた尾張の彫物師によって作られた。

 飛騨高山でもやはり天保8年(1837)に立川和四郎富昌によって五台山の彫刻(写真28)が作られている。同所でもこれが大きな活題を呼んで彫刻が流行し、現在見られるような豪華な彫刻群が生まれることになった。
 桑名でもやや遅れて文久2年(1862)に立川和四郎富重(三代目立川和四郎)により、西舩馬町の石取祭車の彫刻(写真29)が造られた。そしてここでも白木造りの祭車が流行するようになった。
 文化文政期から始まった山車の建造ブームは幕末を経て明治時代まで続いた。明治初期には、江戸時代に幕府や藩の規制で山車の建造が禁止または制限されていた地区でも、山車の建造や購入があいついだ。関東では逆に明治政府が徳川色の一掃の目的で東京の山車祭りを制限したため、山王、神田祭の山車が関東各地に流出する事態になった。(注11)
 明治後期から大正時代にかけても、日清戦争や第一次世界大戦に伴う好景気を背景にして一部の地域で山車の新造が行われた。知多木綿の集散地として大きな利益を得た愛知県半田市では市内の31輌の山車のうち14輌がこの時期に新造されている。同じく木綿の出荷で繁栄した蒲郡市三谷の山車もこの時期に作り替えられた。
 工芸的に優れた山車が作られたのは、だいたい以上の文化文政時代から大正時代までの19世紀を中心とする時代である。文化文政期以後町人文化としての染織、漆工、金工、建築彫刻、絵画などあらゆる工芸分野が発達し、その最高のものが山車におしみなくつぎ込まれた。山車は19世紀の町人の美的感覚を表現したもので、江戸町人美術の集大成と言ってもよいだろう。
 従来、山車は主に民俗学の研究対称とされ、その信仰的な意味や原初的形態に関心が持たれてきた。しかし、以上述べてきたように、山車の全盛期は19世紀であり、山車は江戸後期の町人美術の一つの形態としてとらえることが必要ではないかと考える。
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