東海の山車祭り

第3章 山車祭りの歴史 (1/4)

(1)山車の出現(室町時代)(注6)


21 上杉本洛中洛外図

都市の祭礼における山車の初めは、京都の祇園御霊会(祇園祭)の山鉾である。しかし、祇園祭の山鉾の成立過程について、詳しいことが分かっている訳ではない。

祇園祭そのものは平安時代以来行われて来たが、当時の祭りの中心は馬長、田楽踊り等で、まだ山車はなかった。長徳4年(998)に无骨法師という人が大嘗会の「標山」に似たものを作ったという記録があり、これが山(山車)の起源などとも言われている。

しかし、直接、現在の山鉾につながるものではない。鎌倉時代にはいると馬上十二鉾というものが作られた。これらは柄の先に剣がついた形の鉾に、飾りをつけたものであったと思われる。

鎌倉時代末期から南北町時代になると、中原師守、一条兼良等の貴族の日記の中に祇園祭を見物した記事があり、「定鉾(しずめほこ)」「久世舞車」「造山風流」などの名が散見される。

このうち、定鉾は決まって出される鉾という意味で、手で持ったものか、車をつけて曳いたものか分からないが、その他は明らかに山車であり、この頃に山鉾の原形が成立したと考えられる。
しかし、これらの鉾や山車の形に関する記録はなく、絵画史料も皆無なため、詳しいことは分からない。

『祇園社記』に応仁の乱直前の山鉾61輌の記録(乱後に思い出しながら書いたもの)があり、その中には既に現在ある山鉾の名も多く見られる。応仁の乱による長い中断の後、明応年間(1492~1501)祇園祭は再興され、まもなく山鉾が現在の35輌(中絶中の3輌を含む)に固定された。

当時の祇園祭の様子は、この頃作られた「町田本洛中洛外図」(国立歴史民俗博物館蔵)、「上杉本洛中洛外図」(写真21)(米沢市蔵)等に描かれており、ほぼ現在の山鉾の形ができ上がってたことが分かる。
このように応仁の乱前後に、日本で最も古い都市型山車祭りである祇園祭の山鉾が生まれた。祇園祭はその初期から町衆の手によって作られ、そして支えられて来たが、明応の再興後はその傾向がますます鮮明になった。


22 津島天王祭「市江車」

室町時代になると、京都以外でも山車が造られ始めたらしい。確かな記録のあるものは少ないが、室町時代成立の伝承を持つ祭礼が各地方にある。

尾張地方でも、戦国時代に津島天王祭、熱田大山祭、亀尾天王社(今の那古野神社)の天王祭に大山と車楽が出現し、山車祭りが始められている。
これらのうち、津島天王祭(写真22)については大永2年(1522)以後の人形飾りの記録(注7)が残されており、戦国時代の山車の様子を示す数少ない史料の一つとして貴重である。


前のページメニュー次のページ