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第76回 彫刻の題材〜張良と黄石公

 張良と黄石公は亀崎中切組力神車、岩滑西組御福車、坂井松尾車、小鈴谷白山車、武豊長尾馬場長北車、富貴東大高知里付車といった多くの山車の脇障子に彫られています。(脇障子以外にも見られます。)
亀崎中切組「力神車」
脇障子『黄石公』

立川和四郎富昌
常滑市小鈴谷「白山車」
脇障子『張良』
初代彫常
 向かって左側が馬に乗る黄石公、そして右側が龍に乗る張良です。左右の脇障子を合わせて一つの図柄となっています。 個々の仙人彫刻とはまた違った感じの彫刻です。これは先の項で紹介した、項羽と劉邦の「鴻門の会」にも登場する張良と黄石公の物語です。
 鴻門の会より遡ること10年前の出来事です。張良は元々、韓の国(秦の統一以前、七つの王国の一つ)で五代にわたり仕えた宰相でしたが、韓の国が秦に滅ぼされ、仇を打とうと私財を投じて、力士を使って始皇帝の暗殺を計りますが失敗します。張良はほとぼりがさめるまで下ひに住む親友の項伯のもとに身を寄せます。
 ある時、張良が歩いていると老人が橋の上に歩いて行き川に履を蹴り捨て、張良に拾って来いといいます。張良はそれに応え川から履を拾ってきて老人に差し出します。彫刻に彫られたいるのはちょうどこの場面です。しかし、また老人は履を蹴り捨て、張良に拾って来いといいます。そうした、やり取りが何度か繰り返され、老人は張良が見所のある人物とみて、五日後に来ればあるものを授けるといって立ち去ります。
東大高「知里付車」
脇障子『黄石公』
武豊長尾馬場「長北車」
脇障子『張良』
 五日後、張良は橋の袂に行きますが、既に老人は待っていて、遅いと怒ってまた五日後に来いといって去ります。更に五日後張良は朝早く出かけますが、既に老人が先にいて、遅いと怒ってまた五日後に来い、これが最後だといってさります。張良は五日後ではだめだと考え四日後の夜から先に来て老人を待つことにしました。五日後の早朝、老人がやってきます。老人は張良にお前は帝王の師となるだろう。といって三巻の書を授けます。
 そして十年後旗揚げをし、十三年を経て天谷城に来るだろう。そこに黄色の石がある。それが自分であるといって立ち去ります。黄石公の名はここから来ています。この三巻の書は孫呉の兵法書より勝るとされる太公望の兵法書です。 張良はその後、劉邦に仕え漢王朝を打ちたてるのに多いに貢献します。
 日本の能の演目にも「張良」があります。能では夢で見て下ひに向かいます。黄石公は馬上で履を拾わせます。張良が困っていると、大蛇(龍)が現れ襲ってきます。張良が剣を抜くと大蛇が履を差し出す。といったところが異なっています。
 彫刻でも馬と龍が彫られていますから、史記よりも日本の能から取り入れられたようです。馬、龍を付け加え逸話として摩訶不思議な感じがします。黄石公は名前もわからない老人ですが道教では仙人とされています。張良は実在の人物ですが、劉邦の死後仙人になるといって政治から身を退いた話も残っています。

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