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第41回 祇園祭と牛頭天王

 山車の起源は京都祇園祭の鉾と言われますが今回は祇園信仰で祀られる牛頭天王と山車についてお話ししましょう。
紀元前四世紀、インドではゴーダマシッダルタが悟りを開き、仏教が成立します。お釈迦さんというのはシッダルタがシャーキャ族出身でこれを漢語にしたのが釈迦です。悟りを開いた人をブッダといい漢語にしたのが仏陀でその宗教が仏教となります。
 さて次第に仏教は広がっていきますが、仏教では布施は大切にされます。施しですね。自分のためでなく、他の人のために施しをする、そうした事から、大富豪は精舎を寄進します。精舎とは日本で言うお寺のようなもので僧侶の修行場です。竹林精舎と祇園精舎がありました。
インドは雨季と乾季しかなく、日本のような四季はありません。雨ばかりと晴ればかりです。雨季の時に修行したのが祇園精舎とされてれいます。この祇園精舎の守護神とされたのがゴーズです。後の牛頭天王ですが実際よくわからない神様です。仏教の経典にも有りませんし、日本の神話にもありません。仏教立教以前のインド古代信仰の神様ではないかと推察されます。
古代信仰とは自然信仰で教祖がなく自然発生した宗教日本でいう神道です。神道も教祖はいません。ゴーズが中国で牛頭天王となり日本の信仰に取り入れられます。
 日本には仏教の神様として伝わります。日本に仏教が伝わりますが元々あった神道と平行していきます。後に神仏習合とか本地垂迹説とか出てきますが要は神道と仏教を一まとめに考えたわけです。今でも一件の家に神道の神棚があったり仏教の仏壇があったりしますね、これの名残です。大日如来の化身が天照大神とか牛頭天王の化身が須佐之男とか言われたわけです。
 さて、古く疫病などの流行り病などの災いは悪霊の祟りによるものと考えられてきました。その悪霊を鎮める祭りが祇園祭りであったわけです。御霊会とも呼ばれました。
 少し話がそれますが「備後風土記(地誌)」にこういった話があります。「北の海の武塔天神が南海の神の娘に求婚にきます。そこで二人の兄弟に会い宿を求めます。弟の巨旦将来は断りますが兄の蘇民将来は宿を貸します。武塔天神は感謝してこう言い残します。「自分は須佐之男神です。これから先、疫病が流行ったら蘇民将来の子孫といって茅の輪を腰に付ければ、その人は疫病から守られる。」後に疫病で巨旦将来は亡くなり、蘇民将来の子孫は栄えたとされます。今でも三重県伊勢地方の家々には蘇民将来子孫の家と書かれた板が付いた注連縄が一年中玄関に掲げられています。
 こうしたお話から須佐之男神は疫病をおこす神でもあり、疫病から護る神と両面ができたわけです。さて、そうしたこたから疫病除けに須佐之男神が祭られ祇園社ができます。そこでの祭りが祇園祭。祇園祭は七月ですよね。旧暦では六月ちょうど梅雨のじめじめした季節です。いまでもそうですがこうした時期は物がよく傷んだりしますし。体調を悪くしたお年寄とか亡くなりやすいですね。つまり梅雨(雨季)に合わせて祇園祭をしたわけです。ここで牛頭天王と須佐之男神が結び付くわけです。
 さて祇園祭りでの山車(山鉾)の意義ですがもともとは悪霊を都から追い出すためのものであったようです。鉾の上に枝が付けられそこに紙をつけます。紙で作った人形に悪いものを移して祓う神事がありますがそれに似ていてつまり山車に悪霊を呼び寄せて、そのまま都の外まで曳いていき悪霊を追い出したのです。こうした祓いの意味は忘れられ山車を曳きまわす行事だけ全国に広がっていきました。
尾張津島神社の天王祭は京都祇園祭の意義を残していますが知多地方の山車祭はこうした意義はないようです。
祇園祭り画像の提供はOSHOW氏

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