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第28回 山車の改修〜世楽車の場合

 山車は一朝一夕にはできません。何十年もかけて彫刻等の装飾が完備され現在の形になってきたのです。今回は改修50周年を迎える常滑瀬木字「世楽車」を例に山車の買い受けから現在の形ができるまでを紹介したいと思います。
  世楽車の創建は明治10年(初代)ですが、ここでは現車(大正3年購入)の歴史を中心に書きます。現車は大正3年上半田南組「福神車」を譲り受けたものです。当時南組は山車の台輪より上の部分を改修し多くの部品がのこっていました。それらの部品を買い受け作られたのが現世楽車です。
 山車の譲渡は様々な例がありますが、山車一台そのものを譲り受ける場合もありますが、ここでは部分的な部品だけです。これは福神車の改修で立川和四郎の彫刻(壇箱「七福神」脇障子「崑崙坊人」などをそのまま使用したためです。ちなみに北組も同時期山車の新調を行っていますが、北組は成岩に山車一台そのものを譲渡しています。
 さて、瀬木は部品だけ買い受けたため曳くことができません。瀬木に残る当時の支出明細をみると「輪」「台輪」「心棒」を作った記録が残っています。また宮大工江原長兵衛に依頼していることから多くの部品を使っての建造だったことが伺えます。
 これで、一応山車としての体裁は整ったようですが彫刻などの装飾はほとんどない山車でした。脇障子といえば山車彫刻でも主要部分ですが、これも大正4年までまたなければなりません。この後、寄付によって少しずつ彫刻が加えられていきました。前山の蛙股「粟穂に鶉」には大正13年の墨書きがのこされていますが、
前山蟇股の墨書
これには私の祖父の名前がみえました。ちょうど24歳の厄歳の人たちの寄付によって作られたようです。
 こうして彫刻などを入れていったのですが、山車の柱など部品は中古ですから年々ガタがきたようです。柱がゆれたり、斗形がゆれたり、時には彫刻が落ちてきたり、山車の改修が字の願いでした。
 戦後、社会情勢も落ち着いてきたころ大規模な改修が行われます。柱の新調をはじめ堂山、前山、を新調。部分的には古い部品を使いながらもほぼ新築に近い形で行われ、昭和25年落成しました。彫刻も数年かけ新調されました。現在使われている彫刻はほとんど昭和24年から29年のものです。
壇箱「三韓征伐宝物受け取り」

 壇箱「三韓征伐宝物受け取り」は大正年間のものですが、このとき作者である彫常氏に表面を削ってもらい真新しくしたようです。この山車も平成元年に吹き抜き、平成2年に大幕、水引の新調をして見た目は立派な山車になりましたが、昭和25年に新造した柱もぐらつき、斗形も踊り、彫刻もよく落ちてきました。輪も削れ 山車を引くと全体に大きく揺れてくるようになりました。
輪の掘り出し 新しい堂山柱

 今年、平成11年は世楽車改修50年を迎えます。これを期に再改修が行われました。堂山柱を新調し、輪も新調しました。今までの輪は水槽に保存していましたが、今回の輪は川に2年埋めておいたものです。先日、堀りだされましたが本当にまん丸です。柱も新しいため今年の組み立てには宮大工さんも手を加えての組み上げです。(寸法通りでも微妙なところは多小削る必要があるためです。今年の祭は山車の揺れを気にすることなく、盛大に曳きまわされることでしょう。こうして何年もかけて立派な山車が完成し、その後も部分的に改修しその形を維持していくのです。

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