[尾張の山車館]−[稲沢市北市場] | |
00/10/24更新
北市場町は稲沢市でも最東部で,清洲町,春日町に接する位置にあり,清洲の北に位置する事から北市場と呼ばれたそうです.その北市場の旧美濃街道脇にある立部(たてぶ)神社の祭礼に山車が2台残されています. 立部神社は,明治維新以前は牛頭天王社と呼ばれ,祭神が須佐之男命であることから,この祭りにも津島神社天王祭に類似した部分が多く見られます. こがし祭りの名前の由来 「こがし」のいわれには様々な説があります.寛文年間に飢饉が起き,神社に奉納する者がいなくなったときに,村の名主の夢枕に須佐之男命が現れ,「少しの麦でもいいから奉納してくれ」とお告げがあったそうです.そこで,名主は麦を粉にして団子を供えたところ,飢饉は治まったため,神様に感謝するために祭りが始まったといわれます.その団子の名を「こがし」といったことから,こがし祭りの名が付いた. また,一説には,飢饉のおりに,代官所に祭りをやっていいか伺いをたてたところ,「昔からの祭りだからやってもよい.麦くらいは出来ただろうから,それでこがしを作って食べながらやれ」といわれたのが由来ともいわれます. 3番目の説として,寿永年間に三条小鍛治が当地を訪れた際,祭りが簡素なのを残念に思い,自ら改造し壮麗にしたといいます.それ以後この祭りを「小鍛治祭り」と呼んだのが訛ったと言う説. 最後は,三条小鍛治が往来を通行の際に,市人が邪魔をしてしまい,小鍛治の怒りを恐れて,「この市場のある限り小鍛治様の祭りを絶やしません」といったからという説. どの説が真実かはともかく,このこがし祭りが古くから行われて来た事は間違いありません. こがし祭りの山車 現在の山車は唐破風屋根を持つ上層と,囃子を奏す下層からなる二層で,車輪は外輪で輪懸で覆われた大型の山車です.屋根上の真竹には提灯を巻藁状に飾ります.(詳細は下記) かつて,この祭りは津島天王祭と同様,五条川に巻藁船を浮かべる川祭りであったようです.しかし,社の東側を流れていた五条川は,その後改修のため流れを変え,遠く離れてしまっため,提灯を飾り山車を曳くようになったと言われます. 山車は,上組(上の切)と下組(下の切)2台でほぼ同じ形態です.現在では,曳かれることがないため,梶棒は付けられていません. 道具箱に寛政9年の銘が残されており,建造もその頃と推定されます. |
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参考資料: | 稲沢市史研究編5 稲沢の年中行事 稲沢随想 |
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