挙母祭りと山車の歴史 |
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祭りの起源について,記録に見えるのは,寛永7年(1630)に『飾り車五輌と竹生町の傘鉾,それに南町の獅子が出』とあるのが最初です.
その後,寛延3年(1750)には藩主の命により,南町が飾り車に,また,安永7年(1727)に北町(現喜多町)が飾り車を出し,現在の8町内が揃いました.
この飾り車がどのような車であったかは,定かではありませんが,文化・文政を経て,幕末から明治初期に現在の山車は完成したようです. |
挙母城の移転 |
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これまで幾度も城の水害に業を煮やして来た挙母城が,天明2年(1782)下町から樹木台の童子山に移転したことから,祭礼も変更を余儀なくされることとなりました.
このとき,東町,南町,本町の3町は新しい城の大手門に移り住み,新たに城下町を形勢することになったため,下町に残った5町と分かれることになりました.
これは現在,試楽祭の樹木地区の3町曳きと,下町地区の5町曳きに分離されていることに名残が見られます.(本楽祭の奉納では,8台の山車が挙母神社に一同に揃います) |
山車の特徴 |
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挙母の山車は次のような特徴があり挙母型と分類されます. |
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名古屋型,知多型等のような前後に伸びた梶棒ではなく,後部に湾曲した梶棒が取り付けられています
前部がなく,後部だけに伸びる楫棒は,知立,刈谷,大府市など西三河の山車で見られます.
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山車の前部には霞幕と呼ばれる幕が飾られます.
江戸時代には山車前に舞台を設け,子供による歌舞伎狂言が演じられたといいます.その名残でしょうか. |
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山車前部の下山(前山)には,脇障子はなく御簾の前に太い注連縄が飾られます. |
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上山は,6本柱で,後ろ半分には襖を巡らします.(西三河の山車の多くが,この特徴を有します)
特に東町の山車の襖は,挙母藩主内藤政苗拝領と伝えられ,張月礁の作です. |
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