亀崎石橋組~旧車

先々代

碧南市熊野神社に残される山車部品と箱書きに宝暦6年(1756)の記載があり、該当する山車は石橋組で文化13年(1816)まで曳かれていた先々代の山車と推定されます。
壇箱は彩色された青龍の彫刻で、現在では残骸に近い状態で部品が残存しているとのことです。

先代

文化12年(1815)山車建造。この山車は紺地羅紗に青龍の金刺繍が施された大幕で、壇箱は龍の彫刻だったとのことで、弘化5年(1848)と推定される祭礼図『尾張名所図会附録ー小治田之真清水』に描かれているのはこの山車だと思われます。
明治24年(1890)下半田南組へ譲渡され、さらに協和砂子組を経て武豊町市原に譲られています。

知多郡武豊町市原区「縣車」

昭和4年(1929)に半田市協和砂子組から譲り受けたといわれます。
彫刻を除いた山車本体の購入だったようで、壇箱や脇障子など昭和26年(1951)に二代目彫常によって制作されています。
また平成4年(1992)に改修が行われています。

文化12年(1815)の建造時には塗りと彩色された装飾の山車であったと推測されますが、既に白木の一般的な知多型になっており、当時の面影を偲ぶことはできません。
堂山支輪に残された彩色彫刻や蹴込みの風神絵図など一部は年代の古いものです。

現車

明治24年(1890)に現在の山車を建造。その後明治39年(1900)脇障子新調、大正2年(1912)壇箱、蹴込み新調とあり、懸魚、蟇股などの彫刻は昭和2年(1927)から12年(1937)にかけ初代彫常の制作によるもので、それまで主要彫刻のないまま曳かれていた青龍車が徐々に整備されていったことが判ります。

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